1 『函館区史』の記述には「明治三十二年九月、亀田村の内、字村内、大川通の一部、五稜郭通、陣屋通、千代ケ岱、湯川通、柏野、十文字、村内川東、万年橋、ゴミ川の一部、有川通の一部、札幌通、八幡社後手、田家の一部、六軒家の一部、鍛冶村通の一部、前浜、万年橋脇を函館区に合併す。是に由りて区は面積四十六万四千九百十六坪、戸数三百四十四、人口二千二百二十七を増加したり。」とあり、
2 『函館市誌』の記述は、函館区史の内容と全く同じである。
3 『函館市史資料集』には、
「明治三十二年九月四日(中略)自治制を新に布かれたる函館区の行政区域は旧来の函館区と新に合併したる亀田郡亀田村内の一部よりなることとなれり。故に自治制の意を厳密に解する場合には、其の行政区域の範囲は茲に確立したるものと見るを得べし。其の区域は次の如し。
○ 旧来の函館区四十九か町
○ 新に合併せられたる函館区隣接亀田村の一部十九字『四六四、九一六坪、三四四戸 二、二二七人増加』」となっており、
4 『続函館市史資料集(第二号)―年表草稿―』には
「明治三十二年九月四日亀田郡亀田村内の十九字を函館区に編入。(新川を越えた東西の区域が編入)」とある。