根崎温泉地区の函館市編入

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 大正元年八月、吉川太郎吉が根崎で温泉の泉脈を掘り当てて以来、根崎地区は温泉地としての発展を見るに至った。温泉は湧出温度華氏一八〇度(摂氏八二度)の高温のアルカリ食塩泉で、湧出量は非常に豊富であった。昭和九年の『村勢一班』によると根崎温泉への浴旅客数は、表1・1・12のとおりで、温泉旅館料理店も一六店を数え、昭和六年からは根崎温泉組合が主催して花火と灯籠流しの大会もおこなっている。また、昭和八年には湯の川温泉とともに温泉街振興を話し合う湯の川・根崎温泉座談会を組織している。
 この根崎温泉地区が第二次世界大戦後すぐに函館市への合併編入を考えなければならない状況に追い込まれた。当時の新聞報道では、合併への直接の導火線は「空配給」と「水飢饉」にあった(昭和二十一年二月十二日付「道新」)。
 戦後の食糧難の時代、食糧は配給制であった。根崎温泉地区は銭亀沢村が半漁半農村(生産地)と位置付けられたため、実態としては純消費地といえる同地区は、昭和二十一年に入る頃から四三日間も「空配給(農漁村と都市部では食糧の配給基準が違ったために農漁村への配給は非常に少なかった)」が続いた。温泉関係者と函館市内通勤者がほとんどのこの地区は、困窮の極に達した。さらに戦争中はこの地区に軍療養施設があり、その施設のための給水に付随して函館市から給水を受けていたが、これも施設の廃止とともに中止の申渡を受けるという状況に陥っていた。このため、同地区の住民約三〇〇人は、二月九日に根崎の函館市水道課出張所で函館市との合併促進同盟大会を開催して会長に久住要太郎を選出、次のとおりの決議文を、市、村当局へ提出した。
 
  決議
 一 我等根崎温泉部落民は銭亀沢村函館市合併促進期成同盟会を結成す。
 一 函館市との合併は根崎温泉地帯及び其周辺の一区画或は銭亀沢村全村の何れたると問わず速やかなる実現に勇壮邁進す。
 
 これを受けて生駒銭亀沢村村長は、根崎温泉地区の要望に理解を示したが、根崎地区全体かそれとも温泉街だけとするかは今後の研究調査をまつとの判断で、温泉地区と亀尾地区の交換も考えられるとの談話を発表した(昭和二十一年二月十六日付「道新」)。
 その後、二十一日には市と銭亀沢村の代表が座談会を開催し、合併自体については異議ないとのことになったが、銭亀沢村が根崎温泉地区を函館市へ合併させるための条件を正式に函館市へ提示したため、合併交渉は難しい局面を迎えた。提示条件は次の三条件で、第三の条件が事態を膠着させることとなった。
 
 一 銭亀沢村地元漁業権の確保
 二 松倉川護岸工事費支払
 三 蛾眉野部落三千町歩の割譲
 
 村の薪炭供給地確保という目的で出された第三の条件は、蛾眉野地区の人たちの反対で話が先に進まないでいるところへ、七月に入って渇水期となり市内の水供給も危うくなり、根崎温泉地区への給水は中止される状況となった。このため、八月に入り、第三の条件をめぐって両者が歩み寄り、一〇〇〇町歩を銭亀沢村に編入することで決着をみて、根崎温泉地区は函館市へ編入されることとなった。地番で示すと、字根崎一~二五番地(四~六、一〇、一一番地を除く)、八〇~一五一番地、字高松六~二六番地、三六~三九番地、五四番地、一一〇~一二七番地、一三三~一四四番地である。また、銭亀沢村に編入された箇所は、字鉄山四七~五〇番地、字蛾眉野九四番地である。
 昭和二十三年九月十五日、内務省からも認可され根崎温泉地区の函館市編入は施行された。世帯数は一二五戸、六〇〇人で、主な職業別世帯は、旅館八、漁夫五、戦災者五、引揚者一二、援護世帯一、転入抑制のため住居した世帯一〇と時代を反映した構成となっている(昭和二十一年九月十四日付「道新」)。
 その後、昭和二十二年四月五日に戦後最初の地方統一選挙がおこなわれたが、銭亀沢村村長選挙は昭和二十年に西沢勇一の後を受けて村長になっていた生駒鉄衛以外に立候補者がなく、無投票で彼が村長となり、一期四年務めた。生駒村長以後については、次の選挙(昭和二十六年)で助役から立候補した蛯子兵弥が当選し、函館市との合併まで村長を務めた。
 また昭和二十二年の統一地方選挙では、二二人の村会議員も誕生している。この選挙以降の村会議員選挙結果は表1・1・13のとおりである。
 

表1・1・12 根崎温泉浴旅客数
昭和9年『村勢一班』により作成

 
表1・1・13 村会議員選挙結果3
昭和22改選昭和26改選(26人)昭和30改選(26人)昭和34改選(26人)昭和38改選(22人)
 氏 名氏名職業氏名職業氏名職業氏名職業
津山喜一太田勝也漁業太田勝也漁業木村石次郎漁業木村石次郎漁業
柴田梅太郎柴田梅太郎漁業柴田梅太郎漁業柴田梅太郎漁業柴田梅太郎漁業
武井安郎兵衛寺谷徳太郎漁業寺谷徳太郎漁業武井安郎兵衛漁業武井安郎兵衛漁業
九島喜四郎九島喜四郎漁業九島喜四郎漁業沢田市蔵漁業九島喜四郎漁業
中宮亀吉中宮亀吉漁業伊藤吉次郎漁業伊藤吉次郎漁業伊藤吉次郎漁業
和泉吉三郎和泉又蔵漁業和泉又蔵漁業和泉又蔵漁業木村幸太郎漁業
村田平太郎村田平太郎漁業村田平太郎漁業村田平太郎漁業垣見常蔵漁業
佐藤与五郎木村千代吉漁業木村千代吉漁業黒島宇吉郎漁業黒島宇吉郎漁業
沢田義三郎鈴木勘蔵農業鈴木勘蔵農業沢田義三郎漁業沢田義三郎漁業
岩田久次郎岩田久次郎漁業吉沢長蔵漁業吉沢長蔵漁業福沢兵蔵漁業
沢田倉松松岡菊蔵漁業沢田倉松漁業沢田倉松漁業倉部勇太郎漁業
石田岩夫木村幸太郎漁業木村幸太郎漁業木村幸太郎漁業松田松三郎漁業
松田常蔵松田常蔵漁業松田常蔵漁業松田常蔵漁業瀬川猛漁業
木村国太郎九島喜三郎商業吉田民治漁業木村国太郎商業木村国太郎商業
林下又四郎蛯子道太郎漁業岩田久好漁業岩田久好漁業松田常蔵漁業
蛯子綱太郎蛯子綱太郎漁業蛯子綱太郎漁業蛯子綱太郎漁業蛯子綱太郎漁業
藤谷作太郎藤谷作太郎漁業藤谷作太郎漁業山下豊三郎商業杉下勝明商業
沢田清鉄道員本間新漁業本間新司法書士本間新司法書士
池田兼太郎商業川村沢太郎漁業川村沢太郎漁業川村沢太郎漁業
高野栄次郎高野栄次郎漁業高野栄次郎商業高野栄次郎商業
堀 新農業堀 新農業堀 新農業堀 新農業
川村弘川村弘農業川村弘漁業川村弘漁業川村弘漁業
石田時得石田時得農業石田時得晨業小関吉雄商業
高橋豊農業高橋豊農業高橋豊農業高橋豊農業
松代定蔵松代定蔵無 職荒木勝蔵漁業佐藤鶴治農業
引間真平和泉亀之助漁業引間真平農業引間真平農業

昭和22年は昭和23年『函館・道南人名録』、その他は『村勢要覧』により作成
注)昭和22年は定員22人、昭和26年から昭和34年までの定員は26人で、昭和38年は22人に減員