この根崎温泉地区が第二次世界大戦後すぐに函館市への合併編入を考えなければならない状況に追い込まれた。当時の新聞報道では、合併への直接の導火線は「空配給」と「水飢饉」にあった(昭和二十一年二月十二日付「道新」)。
戦後の食糧難の時代、食糧は配給制であった。根崎温泉地区は銭亀沢村が半漁半農村(生産地)と位置付けられたため、実態としては純消費地といえる同地区は、昭和二十一年に入る頃から四三日間も「空配給(農漁村と都市部では食糧の配給基準が違ったために農漁村への配給は非常に少なかった)」が続いた。温泉関係者と函館市内通勤者がほとんどのこの地区は、困窮の極に達した。さらに戦争中はこの地区に軍療養施設があり、その施設のための給水に付随して函館市から給水を受けていたが、これも施設の廃止とともに中止の申渡を受けるという状況に陥っていた。このため、同地区の住民約三〇〇人は、二月九日に根崎の函館市水道課出張所で函館市との合併促進同盟大会を開催して会長に久住要太郎を選出、次のとおりの決議文を、市、村当局へ提出した。
決議
一 我等根崎温泉部落民は銭亀沢村函館市合併促進期成同盟会を結成す。
一 函館市との合併は根崎温泉地帯及び其周辺の一区画或は銭亀沢村全村の何れたると問わず速やかなる実現に勇壮邁進す。
これを受けて生駒銭亀沢村村長は、根崎温泉地区の要望に理解を示したが、根崎地区全体かそれとも温泉街だけとするかは今後の研究調査をまつとの判断で、温泉地区と亀尾地区の交換も考えられるとの談話を発表した(昭和二十一年二月十六日付「道新」)。
その後、二十一日には市と銭亀沢村の代表が座談会を開催し、合併自体については異議ないとのことになったが、銭亀沢村が根崎温泉地区を函館市へ合併させるための条件を正式に函館市へ提示したため、合併交渉は難しい局面を迎えた。提示条件は次の三条件で、第三の条件が事態を膠着させることとなった。
一 銭亀沢村地元漁業権の確保
二 松倉川護岸工事費支払
三 蛾眉野部落三千町歩の割譲
村の薪炭供給地確保という目的で出された第三の条件は、蛾眉野地区の人たちの反対で話が先に進まないでいるところへ、七月に入って渇水期となり市内の水供給も危うくなり、根崎温泉地区への給水は中止される状況となった。このため、八月に入り、第三の条件をめぐって両者が歩み寄り、一〇〇〇町歩を銭亀沢村に編入することで決着をみて、根崎温泉地区は函館市へ編入されることとなった。地番で示すと、字根崎一~二五番地(四~六、一〇、一一番地を除く)、八〇~一五一番地、字高松六~二六番地、三六~三九番地、五四番地、一一〇~一二七番地、一三三~一四四番地である。また、銭亀沢村に編入された箇所は、字鉄山四七~五〇番地、字蛾眉野九四番地である。
昭和二十三年九月十五日、内務省からも認可され根崎温泉地区の函館市編入は施行された。世帯数は一二五戸、六〇〇人で、主な職業別世帯は、旅館八、漁夫五、戦災者五、引揚者一二、援護世帯一、転入抑制のため住居した世帯一〇と時代を反映した構成となっている(昭和二十一年九月十四日付「道新」)。
その後、昭和二十二年四月五日に戦後最初の地方統一選挙がおこなわれたが、銭亀沢村村長選挙は昭和二十年に西沢勇一の後を受けて村長になっていた生駒鉄衛以外に立候補者がなく、無投票で彼が村長となり、一期四年務めた。生駒村長以後については、次の選挙(昭和二十六年)で助役から立候補した蛯子兵弥が当選し、函館市との合併まで村長を務めた。
また昭和二十二年の統一地方選挙では、二二人の村会議員も誕生している。この選挙以降の村会議員選挙結果は表1・1・13のとおりである。
 
表1・1・12 根崎温泉浴旅客数
昭和9年『村勢一班』により作成
表1・1・13 村会議員選挙結果3
昭和22改選 | 昭和26改選(26人) | 昭和30改選(26人) | 昭和34改選(26人) | 昭和38改選(22人) | ||||
氏 名 | 氏名 | 職業 | 氏名 | 職業 | 氏名 | 職業 | 氏名 | 職業 |
津山喜一 | 太田勝也 | 漁業 | 太田勝也 | 漁業 | 木村石次郎 | 漁業 | 木村石次郎 | 漁業 |
柴田梅太郎 | 柴田梅太郎 | 漁業 | 柴田梅太郎 | 漁業 | 柴田梅太郎 | 漁業 | 柴田梅太郎 | 漁業 |
武井安郎兵衛 | 寺谷徳太郎 | 漁業 | 寺谷徳太郎 | 漁業 | 武井安郎兵衛 | 漁業 | 武井安郎兵衛 | 漁業 |
九島喜四郎 | 九島喜四郎 | 漁業 | 九島喜四郎 | 漁業 | 沢田市蔵 | 漁業 | 九島喜四郎 | 漁業 |
中宮亀吉 | 中宮亀吉 | 漁業 | 伊藤吉次郎 | 漁業 | 伊藤吉次郎 | 漁業 | 伊藤吉次郎 | 漁業 |
和泉吉三郎 | 和泉又蔵 | 漁業 | 和泉又蔵 | 漁業 | 和泉又蔵 | 漁業 | 木村幸太郎 | 漁業 |
村田平太郎 | 村田平太郎 | 漁業 | 村田平太郎 | 漁業 | 村田平太郎 | 漁業 | 垣見常蔵 | 漁業 |
佐藤与五郎 | 木村千代吉 | 漁業 | 木村千代吉 | 漁業 | 黒島宇吉郎 | 漁業 | 黒島宇吉郎 | 漁業 |
沢田義三郎 | 鈴木勘蔵 | 農業 | 鈴木勘蔵 | 農業 | 沢田義三郎 | 漁業 | 沢田義三郎 | 漁業 |
岩田久次郎 | 岩田久次郎 | 漁業 | 吉沢長蔵 | 漁業 | 吉沢長蔵 | 漁業 | 福沢兵蔵 | 漁業 |
沢田倉松 | 松岡菊蔵 | 漁業 | 沢田倉松 | 漁業 | 沢田倉松 | 漁業 | 倉部勇太郎 | 漁業 |
石田岩夫 | 木村幸太郎 | 漁業 | 木村幸太郎 | 漁業 | 木村幸太郎 | 漁業 | 松田松三郎 | 漁業 |
松田常蔵 | 松田常蔵 | 漁業 | 松田常蔵 | 漁業 | 松田常蔵 | 漁業 | 瀬川猛 | 漁業 |
木村国太郎 | 九島喜三郎 | 商業 | 吉田民治 | 漁業 | 木村国太郎 | 商業 | 木村国太郎 | 商業 |
林下又四郎 | 蛯子道太郎 | 漁業 | 岩田久好 | 漁業 | 岩田久好 | 漁業 | 松田常蔵 | 漁業 |
蛯子綱太郎 | 蛯子綱太郎 | 漁業 | 蛯子綱太郎 | 漁業 | 蛯子綱太郎 | 漁業 | 蛯子綱太郎 | 漁業 |
藤谷作太郎 | 藤谷作太郎 | 漁業 | 藤谷作太郎 | 漁業 | 山下豊三郎 | 商業 | 杉下勝明 | 商業 |
沢田清 | 鉄道員 | 本間新 | 漁業 | 本間新 | 司法書士 | 本間新 | 司法書士 | |
池田兼太郎 | 商業 | 川村沢太郎 | 漁業 | 川村沢太郎 | 漁業 | 川村沢太郎 | 漁業 | |
高野栄次郎 | 高野栄次郎 | 漁業 | 高野栄次郎 | 商業 | 高野栄次郎 | 商業 | ||
堀 新 | 農業 | 堀 新 | 農業 | 堀 新 | 農業 | 堀 新 | 農業 | |
川村弘 | 川村弘 | 農業 | 川村弘 | 漁業 | 川村弘 | 漁業 | 川村弘 | 漁業 |
石田時得 | 石田時得 | 農業 | 石田時得 | 晨業 | 小関吉雄 | 商業 | ||
高橋豊 | 農業 | 高橋豊 | 農業 | 高橋豊 | 農業 | 高橋豊 | 農業 | |
松代定蔵 | 松代定蔵 | 無 職 | 荒木勝蔵 | 漁業 | 佐藤鶴治 | 農業 | ||
引間真平 | 和泉亀之助 | 漁業 | 引間真平 | 農業 | 引間真平 | 農業 |
昭和22年は昭和23年『函館・道南人名録』、その他は『村勢要覧』により作成
注)昭和22年は定員22人、昭和26年から昭和34年までの定員は26人で、昭和38年は22人に減員