中野A遺跡は、函館空港滑走路の延長工事に伴い、昭和五十年度から平成四年度まで数回にわたって調査が実施されたもので、ほぼ集落跡の全容が確認されてきている(『函館空港第4地点・中野遺跡』函館市教育委員会一九七七・『中野A遺跡、中野A遺跡(Ⅱ)』北海道埋蔵文化財センター一九九二・一九九三)。この遺跡は、海岸段丘に切れ込み津軽海峡に注ぐ、延長約一キロメートルほどの小河川となる銭亀宮の川の右岸にあたり、標高三〇から五〇メートルほどの緩やかな斜面上に広がりをみせている。この場所から、人びとが居住していた痕跡として、半地下式に掘られた竪穴住居の跡が数多く発見されていて、ほとんどが縄文時代早期の段階に造られたことが明らかとなった。この中の最も古い時期としては、早期前半頃の日計式という縄文を押型に施した土器を使用した住居跡が一軒確認されている。次には、早期中頃から後半の時期とみられる物見台式と呼ばれる、貝殻による文様を施した尖底土器をもつ集団があり、重複するのを含めて五九軒の住居跡が存在していた。さらに、早期末頃の道東地方で中茶路式とされる、縄紐による文様を施した平底土器の時期の住居跡が八軒ある。また、前期初頭頃の春日町系・トドホッケ式土器の時期に属するものが二軒あった。これらのことから、早期前半頃には居住が開始されたようであるが、まだ集落にまで発展した様子はうかがえない。おそらく、ある程度の集団による定住が始まり、集落が形成されたのは早期中頃以降の時期になると思われ、この段階には数軒単位で住居が存在するようになる。そして、その後複数回にわたって居住が繰り返されていったものと考えられる。
住居跡の立地状況では、物見台式土器のグループは、隅丸方形や卵形状などで、長さ四・五から六メートル程度が多く、台地北側の沢頭近くの標高四五から五〇メートルの斜面上には五〇軒ほどが密集する傾向にある。また、これより一五〇メートルほど南西側にも六軒が一単位となったまとまりがみられる。これに対して、中茶路式土器のグループは、石組炉を有するものが多くみられ、標高四〇から四五メートルほどの沢沿いの台地縁に連なりをみせている。このように、中野A遺跡の集落の構成には偏りがあるようで、特に住居跡の重複が著しい物見台式土器のグループは、ある程度限られた範囲の中で、比較的短い期間で住居の建て替えを行っていたものと考えられる。
ところで、一つの時期にはどれくらいの規模の集落が成立していたのであろうか、今のところこれを決定付ける根拠は乏しい状況にある。しかしながら、遺跡の南西側において、ほぼ同時期の住居跡が一定程度の距離のもとで六軒並んでいる状況からみて、これを一つの単位と考えることが妥当と思われる。最小でも二、三軒のグループとなり、最大で五、六軒から構成されていたと考えられ、一軒当たり四、五人として計算すると、およそ一〇から二五人程度の集団として居住していたと推測することができよう。
図1・2・3 中野A遺跡の集落跡分布図1
図1・2・3 中野A遺跡の集落跡分布図2
図1・2・3 中野A遺跡の集落跡分布図3