銭亀沢地域の産物

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 まず、銭亀沢地域の集落の変遷をおおまかに戸口の推移よりみてみたのが表1・4・1である。次にこの地域の産業についてみてみよう。寛政九(一七九七)年にまとめられた「松前地竝東蝦夷地明細記」(北海道立文書館蔵 旧記一一九四)には、志苔村、銭亀沢村、石崎村ともにその産物として夏場の昆布、曳網の雑魚が記され、漁業で生計をたてていた様子がうかがわれる。
 また、その約一〇〇年後の明治十三(一八八〇)年の「亀田郡各村物産表」(北海道立文書館蔵 簿書番号四〇六八〈前季〉、四〇七二〈後季〉)に記載されている志苔、銭亀沢、石崎各村の「職業戸数」をまとめたのが表1・4・2である。
 銭亀沢では農業によって生計をたてる戸数と漁業によるものが半分ずつ、志苔は七割が漁業で農業は約二割、石崎では九割が漁業である。三村全体で見ると漁業戸数が約七割を占める。
 実際にどのような産物が収穫され、換金されていたかを示したのが表1・4・3である。いずれの村でも農業、漁業両方の生産が見られる。ただし、漁業が九割を占める石崎村では農産物の換金はあるが、わずかである。
 また、漁業戸数七割の志苔村は、その割合が大きいにもかかわらず、農産物の収穫換金額が多い。「亀田郡各村物産表」によれば、石崎、下湯川村の概況欄に「漁業ハ現今、至テ薄漁ナリ」「漁業ハ薄漁ナリ」〈前季〉、「鰯漁業ハ大漁ナリ其他ハ平漁」〈後季〉とあり、この年は漁業が芳しくなかった様子がうかがわれ、そのことが漁業生産物の換金額が少ないひとつの原因と思われる。
 そして、農、漁半分ずつの銭亀沢村では農産物の収穫はあるものの換金されていない。これらのことから考えて、全体的には漁業に重点がおかれた産業構造であったといえよう。
 さらに石崎村の概況欄に「当村民ノ如キハ農漁両業ヲ兼営ノ仕来タリニテ農ニ未熟ニシテ漁ニ長セリ、故ニ農ニ疎ク毎年壮健ノモノハ春季ニ至レハ鯡稼トシテ百里ニ奔走シ該地ノ漁業者ニ傭役セラル、在家老幼ノミニテ十分耕スコトヲ得ス」とあるように一戸の内でも漁業主導型の兼業であったことがわかる。
 

表1・4・1 志苔・銭亀沢・石崎各村戸口推移

          旧記および簿書はいずれも北海道立文書館蔵
          表中の数字は上段-戸数、中段-人口、下段-1戸あたりの人数
          1669年の銭亀沢村の戸数は黒岩のみの戸数である
          1808年の志苔村については史料に記載がなかった
 

表1・4・2 志苔・銭亀沢・石崎各村職業戸数(明治13年)   単位:戸

「亀田郡各村物産表」明治十三年前季・後季(北海道立文書館蔵 簿書番号4068,4072)により作成
表中、上下2段に数字を記載しているものは、前季と後季で戸数が違うもので、上段が前季、下段が後季である
 

表1・4・3 志苔・銭亀沢・石崎各村物産一覧(明治13年)

   「亀田郡各村物産表」明治十三年前季・後季(北海道立文書館蔵 簿書番号4068,4072)により作成
    表中*印は換金されているもので、( )内は換金額