コラム (宇賀漁業協同組合長藤谷作太郎と北洋漁業)

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藤谷作太郎

 現在高松町で漁業会社を経営する藤谷作太郎は、昭和五十二(一九七七)年、日ソ間の漁業交渉政府顧問としてモスクワを訪れて以来、現在まで毎年のように両国の交渉にかかわっている。また、日米間の漁業問題解決に訪米したこともあるし、日本鮭鱒漁業協同組合連合会会長、日本海鱒流網漁業組合連合会会長などという要職もつとめてきた。
 藤谷がこのような大舞台に登場するに至ったのは、第二次世界大戦後のいわゆる「北洋再開」が、そもそもの発端である。藤谷が北洋漁業に取り組むことになった経緯をここに略記しておこう(『渡島北洋漁業協同組合三十年史』を参考にした)。
 昭和十五(一九四〇)年、藤谷は奥尻から臼尻漁業協同組合を経て銭亀村字根崎にある無限責任宇賀漁業協同組合の参事に招かれ、中宮亀吉(二代目)組合長のもとで働くようになった。それまで殷賑をきわめた沿岸の鰯漁業が振るわなくなったころであった。
 第二次世界大戦後、藤谷は一時、漁業協同組合を離れたことがあった。民間の漁業会社に就職したのだが、この時に北海道選出の国会議員などの知遇を得たのが、後年の北洋漁業再開時には、大きな力になったという。
 戦後、日本の沿岸漁業は衰退する一方であった。銭亀沢地区も例外ではない。そんな中にあって、昭和二十七年の北洋漁業再開に、沿岸漁業従事者は活路を求めたのであった。全国から北洋出漁への希望がわきあがったのである。また政府も沿岸漁業から沖合へ沖合から遠洋漁業へというスローガンのもとに、政策を推し進めたのであった。
 一方、民間で働いていた藤谷は昭和二十六年に、宇賀漁業協同組合の組合長として再び迎えられた。折しも北洋漁業再開の前年であった。ここから、藤谷は北洋進出の推進役となって働き出すことになるのである。
 昭和二十七年一月、水産庁は北洋出漁許可についての基本方針を発表し、翌二月には、母船式のみの試験操業に限定することや、北海道と本州の二ブロックを結成することなど、具体的に関係自治体の知事に通達が出された。これを受け、北海道には北海道北洋出漁組合、本州には北洋漁業組合が結成されたのである。
 この年北海道には二五隻の独航船の配分があり、北海道庁の指導により、北洋出漁組合の構成員の一つである北海道漁業協同組合連合会には八隻の出漁が認められた。渡島管内の各漁業協同組合は、北洋漁業へ参画するために一丸となり、三六の漁組が参加して任意組合の「渡島北洋出漁組合」を結成し、八隻のうち二隻の出漁の枠を得ることができたのである。
 銭亀沢地区からは銭亀漁協組が不参加で、宇賀と石崎の漁協組が加入した。宇賀漁協組の組合長として藤谷は積極的に北洋出漁を目指し、渡島北洋出漁組合の監事にも選ばれ、資金作りや諸事務に奔走した。この時宇賀漁業協同組合は五万円を払い込んだが、各漁協組からの出資金は思うように集まらず、初年度は北海道漁業協同組合連合会などから資金を借りた。

昭和28年調査船として出漁した組合自己船第7久栄丸(『渡島北洋漁業協同組合三十年史』)

 こうして初年度、何とか二隻を用船し、これらは大洋母船船団に組み込まれた。昭和二十七年五月一日、華々しく出漁したこの二隻の独航船を関係者は祈るような気持ちで見送ったに違いない。しかし結果は二二〇万円余の赤字となり、出漁組合は早くも窮地に陥った。監事の藤谷は経営再建計画の中枢を担っていくことになる。
 ところで、北洋再開により、戦前から北洋漁業と縁のある銭亀沢地区からは「日魯」「大洋」「日水」各母船の作業員として、多数の人たちが雇用された。昭和二十九年に本格操業が始まると、さらに多くの会社が参入したため、労働者の勧誘はすさまじかったという。また銭亀沢をはじめ函館近郊の各町村は、漁網やカニかごの修理の下請け作業で、女性たちにも就労の機会が与えられるようになった。一方、渡島北洋出漁組合の独航船は、漁民の子弟を船員にするための養成の場でもあり、多くの漁協組から乗船希望が殺到したという。
 昭和三十年、渡島北洋出漁組合は、法人の「渡島北洋漁業協同組合」に改組し、藤谷は組合長に就任した。だが発足以来経営難が続いており、傘下の各漁組からは解散すべきという声もあがりつつあった。
 しかし藤谷はこれにひるまずこの組合を守り続け、さらにオホーツク、西カムチャッカ海域開放を機会に出漁していた東部北洋漁業組合(石崎・宇賀・安浦漁組で構成)が、昭和三十一年に撤退すると、藤谷が権利を買取り、個人で会社を創設して、組合長のかたわら漁業会社の経営もおこなうようになったのである。北洋にかけた藤谷の意気込みがうかがわれる。角度をかえてみれば、彼の強い指導力が銭亀沢地区における、前浜漁業から遠洋漁業への転換に、大きな役割を果たしたともいえるであろう。