明治二十九年五月十四日「北海道鉄道敷設法」が公布され、北海道開拓に必要とする鉄道建設の順序などを調査した「北海道官設鉄道調書」を北海道庁が作成、拓殖務大臣に提出した(『北海道鉄道百年史』上巻)。これを受けて北海道官設鉄道は道央部から次第に建設が進んでいくこととなる。
この調書によると、建設に急を要するものとして五六二マイル、次いで建設するものを第二期四四二マイルとしており、第二期鉄道の中には「小樽港より函館に至る鉄道一四六哩余」と道央と函館を結ぶ鉄道敷設が明記されている。
その後、函館、小樽間の鉄道は官設によらず、函樽鉄道株式会社(一年後に北海道鉄道株式会社と改称)の私設鉄道として敷設され、明治三十五年十二月十日函館(後に亀田駅と改称)、本郷(現渡島大野駅)間が開通、明治三十七年十月十五日には函館、高島(現小樽市)が全通して、鉄道敷設で遅れをとっていた函館も、ようやく道央と一本の鉄路で結ばれることになった。その後、同鉄道線は明治四十年七月、前年に公布された鉄道国有法により国有化される。この幹線鉄道線の全通を契機に、これに接続する鉄道を函館を起点に敷設しようとする動きが渡島半島の西海岸部と東海岸部にでてきた。
このような動きの中で、東海岸部においては函館区と戸井村を結ぶ私設軽便鉄道の敷設が出願されている。明治四十四年十一月十一日付けの「函館日日新聞」によれば、この鉄道は「函館軽便鉄道株式会社」が「函館港より亀田郡の東海岸戸井村に至る間に軽便鉄道を敷設し以て郡邑の交通をして敏活ならしめんとす」ることを目的に出願されたもので、「函館区を起点とし、湯の川村、銭亀沢村を経て戸井村に至る軽便鉄道敷設の件は予て平出喜三郎、若松忠次郎、長田薫、佐分利一嗣氏等有力なる諸氏に依りて出願中の処、此の度其の筋の検査を了し、近日免許状下附せらるるに至るべし」、とこの鉄道の敷設が近日中に認可される見通しであることを伝えている。
なお、敷設計画については、同紙に掲載されている趣意書に「函館軽便鉄道は、北海道函館区を起点とし、同亀田郡湯の川村及び銭亀沢村を経て戸井村に至る二十哩七十鎖の線路を敷設」と約三四キロメートル余りの線路を函館、戸井間に敷設することのみが記載されているだけで、詳細な路線などについては明らかではない。しかし、函館軽便鉄道は実現されることなく、銭亀沢村を通るはずであった初の鉄道路線は夢物語となって消えたのである。