明治末から大正初めの道路事情

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 大正二(一九一三)年六月二十九日、北海道における初の電車が函館区内東雲町、湯川間で運転を開始した。これは、函館馬車鉄道を合併した函館水電株式会社によるもので、大正三年五月には谷地頭まで開通、現在とほぼ同規模の路線網が形成された。また、鉄道路線も大正期には、幹線のほか前述した函館と上磯を結ぶ軽便線などの支線的な鉄道線も営業を開始し、北海道内各地を結ぶ鉄道路線網が形成され始めていく時期でもあった。
 さて、ここで近代交通機関としての鉄道の恩恵を受けていない東海岸における道路事情はどのようなものであったのだろうか。
 明治後半の函館周辺における道路事情、とくに東海岸は「函館より戸井海岸を経て、恵山を通し森に至る一帯の海岸線には、未だ県道たるの施設を為し居らざるなり、此の事たる北海全道中何れの海岸と雖も道路を通し従来地方費を以て修築し来たりたるに反し、独り北見の一部を除き独り渡島の東海岸に対しては、曾て地方費の均霑に与からさりしものなり」(明治四十三年十月二十三日付「函日」)と当時の新聞が報道しているように、道内でも特に道路の整備がはなはだ遅れていた地域であったといえよう。このような道路事情は大正期に入ってもさほどかわらず、汽船海運や鉄道輸送に比べて、一般的にも道路交通に対する認識は低いままであった。
 北海道では、大正八年公布の法律第五八号「道路法」、同年勅令第四七三号「北海道道路令」に基づき、国道・地方費道・準地方費道・区道に区分・等級され、道路の整備が本格的に始まってくるのである。
 東海岸においても、北海道庁により函館から椴法華までを三期に分けて開削する計画がなされ、その内の第一期として函館から戸井に至る区間は、大正五年十月には馬車が往来できる程度の道路として整備された(大正五年十月十六日付「函新」)。しかし、戸井より椴法華までの工事は打ち切られたようで、第二期、第三期の早急な工事を要請した新道開削請願が関係村有志により道庁宛てに大正五年十一月二十六日付けで提出されている(大正五年十二月四日付「函新」)。