戸井線建設と銭亀沢

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 釜谷鉄道は、改正鉄道敷設法により敷設が決まっていたとはいえ、銭亀沢地区の工事も大正十二、十三年頃には着工といわれながらも延びに延びていたが戸井線としてようやく建設が始まったのである。この頃はバスも走っていたが運賃が高く、銭亀沢村古川地区では皆、湯川や函館市内まで徒歩で行くことが多く、汽車が通ることを喜んだそうである。昭和十四年四月には銭亀沢駅前の道路改修実地調査が行われている(昭和十四年四月二十三日付「函日」)。
 古川地区には工事のためのタコ部屋が現在の汐川橋付近に造られ、「ジュグラ」と呼んでいる物置を貸し、そこには二〇代の朝鮮人と思われる労働者三〇名ほどが寝りして働いていた。付近の住民が彼らにイモなどの食料をこっそりと分け与えていたことも多かったそうである。工事は昼間だけで機械は使わず人力で土工などをおこなっていた。枕木、線路は敷設されていなかったし、冬場は工事が休止されていたという。
 昭和十四年七月、渡島町村長会部会が戸井、大間間の連絡船増設運動と戸井線の椴法華、森までの延長による環状線実現運動を起こすことを決定しているが(昭和十四年七月十一日付「函日」)、銭亀沢地区の住民の間では「軍隊の鉄道」、「戸井要塞に物資を運ぶ鉄道」と捉えている人が多く、自分たちの鉄道という意識はそれほどなく、生活上必要不可欠の鉄道ではなかったようである。