広域行政と「むら」意識の二重構造

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 昭和三十五年七月に二つの衝突があった。ひとつは、函館市と下海岸の七漁業協同組合とのし尿放流反対運動にともなうもので、その様子は、「市側が説明の途中で漁民側からの“無害のものであれば函館湾内へ流せ”との反問に対し、前田助役が“沿岸に影響を及ぼすのでできない”と答えたため興奮した漁民たちはわっとばかりに市理事者側を取り囲み、口々に“それで真意がわかった”と叫びながら乱暴をはたらいた」(昭和三十五年七月十五日付「道新」)と報道されている。
 もうひとつの衝突は、前浜のコンブ漁業権をめぐる銭亀沢漁業協同組合の分裂にかかわるものである。「銭亀沢のコンブ問題 海上ピケで最悪事態へ」(昭和三十五年七月二十四日付「道新」)、「あわや“源平合戦”銭亀沢村のコンブ騒動」(同二十六日付「道新」)、と報道されて警官隊や巡視船も待機する状況であった。
 函館市のし尿放流計画は、「陸上にし尿の固形物を三段スクリーンで除き、海水で二十倍に薄めて塩素殺菌、これを四千メートル沖、深さ六十四メートルの海底に流すものだ。三十四年から着工にかかったが、前の年あたりから動き始めていた函館市漁協組をはじめ、下海岸七漁協組の反対運動が表面化、工事はたびたび中断した。このうち函館市漁業組は、三十五年九月放流管の敷設でコンブ礁が一部破壊されるので、補償金四百五十万をもらって試験放流を認めることになり、反対運動から脱落した。『海産資源にぜったい悪影響はない』という強気の吉谷市長に、下海岸側ももし害があるなら計画を撤回するという条件で、三十六年九月放流テストを認める協定を七漁協組とかわした。」(昭和四十年五月三十一日「道新」)という経過をたどってきた。
 このし尿放流計画にともなう衝突は、函館市の都市問題と漁村にとっての環境問題との対立を意味していた。しかし、この市と下海岸七漁協組の間で七年越しにもめていた、し尿海中放流問題は、能登渡島支庁長のあっせんで、市村合併を機会に市が見舞い金を支払う形で解決がなされた(昭和四十一年十二月十日付「道新」)。このことは、市村合併によって銭亀沢地区が都市問題をも内在化することを意味し、そのための漁業者の和解であった。
 漁業協同組合の分裂による衝突は、合併による広域化に逆行するもので「漁協組の規模が漁業権を中心とする部落単位に構成されている為め、その規模が経済団体として過小である。このことは漁協組を経済事業体としての発展を阻害する大きな要因となってをり漁協組の合併をも阻害している」(「銭亀沢中央漁業協同組合設立関係綴」)との現状認識との落差を表している。また、同じ頃漁業権を共有する根崎と宇賀の両組合の合併促進協議会が結成されたが(昭和三十五年九月二十三日付「道新」)、その後の進展はみられなかった。
 漁業協同組合の合併の動きは、「一市町村一組合を目途とした漁協組の合併統合を進めるとともに、将来方向としては、道路、交通等漁村環境の改善に対応した広域的な漁協組織の確立を図る」(北海道『渡島東部地域沿岸漁業構造改善計画書』昭和四十八年)とする北海道の方針などの影響によるのか、昭和四十八年九月二十八日に四漁業協同組合の合併打合せ会議が実施されている(昭和四十八年九月二十九日付「道新」)。この合併計画には、函館漁業協同組合が販売実績の違いで、石崎漁業協同組合は半農半漁の組合員が多い点で除かれている。
 この合併計画も総論賛成、各論反対で一向に進展しなかった。その大きな理由には、「各漁協が持っている第一種漁業権(コンブ、アワビ、ウニ)をいったん白紙に戻し、一つの漁業権を設定し運用については行使規制を設けることでトラブルは防げるのではないか」(昭和五十年七月二十三日付「道新」)との市農林水産部長の提案にあるような漁業権の共有化への課題と、「ハマのことを本当に考えたら合併は必要だ。“ポスト争い”という目先のことにとらわれず、漁民のために行動して欲しい」(昭和五十二年三月三十日付「道新」)という政治的課題が指摘できる。
 二つの衝突の結末のように、市村合併と漁業協同組合の合併は同じ過程を歩むことがなかった。そこには住民における広域行政の認識と、大字の空間と符合する漁協組の狭域空間の認識も共存しているように思われる。し尿放流問題の和解は、漁民にとってその反動的な危機意識として前浜の漁業権に執着することになったとも考えられよう。広域行政の経済主義とともに、住民の権力闘争をも含んだ「むら」意識の二重構造を認めることができる。

市役所に押しかけた漁民たち(北海道新聞社提供)


海上でピケを張る漁民と岸で見守る警官や住民(北海道新聞社提供)


川で遊ぶ子どもたち・昭和31年(井上 清提供)