古砂州が張り出し、新しい海岸段丘や海岸低地が出現した時代(図2・1・12、約八万年前)

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 一二万年前に現在の標高で約六〇メートル付近にあった海面は、温暖期の終了とともに下がり始め、それまでの波食台は離水して新たな海岸段丘となった。これが日吉町Ⅰ面と呼ばれる面である。最終間氷期の形成になるこの時期の海岸段丘は日本列島各地で見られ、下末吉面やS面の名称で知られている。その後も海面は全体として下降し、一〇万年前頃にも停滞、あるいは少しの上昇があったとされ、それに対応した海岸段丘が造られた。これが日吉町Ⅱ面である。函館山の山麓部にもこの時期の面が残されている。海面低下とともに、こうした海岸段丘形成はさらに続くが、八万年前頃になると、幾分、様相を異にしてくる。すなわち、徐々に函館山との海域が狭まり、海も浅くなったため、東西両海域からの沿岸流と、波の力により、砂が打ち寄せられ、函館山に向けて砂州が発達し始めた。その背後には、海から砂州により閉ざされた潟湖が形成され、そこには泥質物が厚く堆積した。これらはいわば古砂州、古潟湖とも呼べるもので、古砂州にあたるところが、現在の千代台公園や、本町、柏木町、駒場町など五稜郭交差点から市電の駒場電停前付近にかけての高台、北側に向けては田家町、富岡町を載せ、さらに函館流通センターを載せる台地にあたる。一方、古潟湖にあたるのは本通、柳町、川原町、深堀町の一部などである。
 亀田川や横津岳から流れ出す川々は、海面低下に伴って沖合いに退いた海に向け、幾らか扇状地を拡大し、一部は海岸段丘を覆っていた。いわば現在の函館に幾らか似た景観がこの時期に出現したことになる。

図2・1・12 約8万年前の函館周辺の地形環境(太い点々は、銭亀沢火砕流が覆った部分)