コラム(陸繋砂州はいつ頃現れたのか)

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 函館山の山頂から見おろす函館市街が、陸繋砂州の上に載るとは、多くの観光案内が紹介するところである。しかし地形学的にみると、陸繋砂州は千代台の台地縁から陸繋島としての函館山の麓まで長さ三キロメートルの間に過ぎない。その幅も函館湾の埋立部分を除けば自然状態でせいぜい六〇〇メートル程度である。にもかかわらず、山頂からの景観が大きく扇形に開いて見えるのは、既述の古砂州(函館段丘)自体がすでに扇形の形状を持ち、そこを足がかりとして付着、成長した砂州が、とりわけ上磯側で幅を広げたからである。
 それでは陸繋砂州はいつ頃成立したのだろうか。結論からいうと、砂州は、約四〇〇〇年前以降のある時期に海上に顔を出したが、完全に繋がった時期はいまだ分からない。かつて、市役所脇(東雲町一三番地一六)で、いわゆる「東雲町自然貝層」が見いだされ、砂州の成立に手がかりを与えるものとして調査された。それによれば、地表下一・二メートル、すなわち標高一・三メートルの高度(吉崎、1966)から下の砂層中に、ヒメシラトリガイ、イボキサゴ、ウメノハナガイ、オオノガイ、ハマグリ、シオフキガイなど(石川、1966)の貝化石床が見いだされた(図2・1・15)。ハマグリ、イボキサゴ、シオフキガイは現在の北海道には棲息していないので、比較的に温暖な環境であったことを示す。こうした貝化石包含層の存在は、当時、砂州本体が海面下ですでに作られ始めていたことを物語っている。その後、この貝類の放射性炭素年代が中田ほか(1975)により、約四〇〇〇年前(4040±100y.B.P.)と出された。さらに、ごく最近、紀藤ほか(未印刷)は、宮前町一三番地四の下水道工事現場の地表下三メートル(標高〇メートル)の層準から、アサリ、イボキサゴ、ホソウミニナ、ヒメシラトリガイ、シオフキガイ、ハマグリなど、同じく暖海性の棲息環境を示す多量の貝化石を採集した(図2・1・15参照)。ハマグリ二個体の年代は、約二五〇〇年前、あるいは約二三〇〇年前(2,520±100y.B.P.(NU-719)、2,280±100y.B.P.(NU-719))というものであったが、この当時にあっても砂州の付け根部分にあたる宮前町が浅い海であったことを知ることができる。
 ただし、東雲町自然貝層の頂面高度が間違いなく標高一・三メートルとするならば、その堆積後、相対的な海面低下(地盤上昇の可能性が強い)とともに市役所付近は、細長い砂州島として陸上に顔を出したとみることができよう。柱状図に、東雲町自然貝層の上に海浜砂とみられる砂層、また軽石層、ピート(泥炭)などの記載が見られるのは、陸化した後の環境を反映したものであろう。すなわち、約四〇〇〇年前以降のある時期に砂州は陸化したが、それでもすべて繋がっていた訳ではなく、二五〇〇年前頃でも砂州の付け根部分は浅海であった。したがって、砂州が完全に函館山と繋がったのがいつかはいまだ確認できていない。

図2・1・15 陸繋砂州の表層地質と貝化石年代
(市立函館博物館編(1966):『函館市東雲町自然貝層調査研究報告書』、紀藤ほか(未印刷)による)

 函館市役所側では、約4千年前の暖海性貝化石が見つかっている。それを包含する海成砂層上面は標高1.3メートルに位置する。当時の海面がかなり高かったと予想してしまうが、海岸段丘高度から知られるように函館市街地は千年に0.5メートル程度の地盤隆起が継続しているものとみられる。すると、4千年前の砂州は今より2メートル程低かったことになり、高海面を想定する必要はない。