樺太のニシン場では主に建網に従事した。建網には小建網と規模の大きな網を立てる大番屋があり、下海岸の漁師は主に小建網に行った。小建網は個人の網主が、地元の人の権利を借りておこなう例が多く、下海岸からは六、七軒の網主が小建網を立てていた。小建網の場合は一か統一四、五人で、大番屋の場合は四〇くらいになった。賃金は、小建網はブカタ、大番屋はヤトイが多かった。募集は船頭が集めたが、金に困っている人はヤトイの方を選ぶことが多かった。
ニシン場への出発は、四月十日頃であった。函館から汽船で直接樺太まで行った。汽船には、ニシン場で使う漁具やムシロ、綱の材料となるワラをはじめ食料、雑貨を船倉に積み、その上を平らにして生活した。樺太の地元から購入するのは菓子類だけで、あとは味噌、醤油、砂糖(樽に入った黒砂糖)、米に至るまですべて函館から運んだが、船と網は現地に船囲いしておいた。
ニシン場に持参する荷物は、着替え三代わりと、小型に作った布団で、これらを入れた畳表を網でくるんで荷造りした。これをシドといった。また、コウリにも入れたが、コウリは角が痛む欠点があった。しかし、番屋に行ってからはコウリの方が出し入れに便利であった。シドの場合は風呂敷を用意していった。これらの使用は人によって好みがあり、半々くらいであった。荷物は、馬車で運んで船に乗せた。
ニシン場の仕事の最初は、雪切りから始まった。雪囲いした船をおろし、網の補修や、網を仕掛けるためのワラ綱や、これを固定するための土俵作りなどの準備作業をおこなった。ワラ綱はワラ縄をギッチョ(左手)で編んで作った。
ニシン場で役職のある人をヤクビトといった。ニシン場のヤクビトには、普通センドウ、オヤジ、オモテガカリ、イソブネノリなどがあった。
センドウは、ニシン場の現場責任者で、つれて行く漁師の手配などもおこなった。普段はボッチ船に乗り、網上げの指示を出した。オヤジは副船頭ともいえるもので、オコシ船に乗り、網起こしの指揮をとった。オモテガカリはオヤジの補佐役であった。イソブネノリはオカとの連絡役で、普段はオコシ船に乗っており、急の連絡があれば、イソブネに乗って連絡に行く。これに使うイソブネはやや小型であるが、函館周辺のイソブネと同じもので、函館で造船したものを貨物船で運んだ。
小建網に使った網は、角網といわれるもので、ニシンを誘導するテアミ(カキアミ)とニシンが入るドアミの部分からなっていた。網を設置する手順は、太いロープを網の形に配置し、これを固定する綱に土俵を付けて、海底に投入する作業をおこなった。これをカタイレといった。カタイレはオコシ船一艘でおこなった。船に歩み板を敷き、その上に土俵をおいて一斉に落とした。土俵の大きさは二、三人でようやくもてるくらいの重さであった。
カタを入れた後に、アミイレをおこなった。アミイレは、網本体をカタに取り付けていく作業で、アミイレが終わった日には、アミオロシの祝いがあった。
樺太ではニシンの来るのは、早くて五月の五日、六日か五月十日前後が盛漁期になった。
小建網の場合はドアミの両側に、オコシ船とボッチ船がついた。オコシ船やボッチ船は、サンパと同様の船で、ミヨシは立っていないのを使った。これらもイソブネ同様、函館で造船し、ニシン場まで貨物船で運んだものである。オコシ船には一〇人前後のワカイモノが乗り組み、ボッチ船に船頭と、船頭手伝いの二人が乗ってオコシ船に網起こしの指示を与えた。
網は四角い網で、網の中央部にクチが付き、そこからテアミがのびる。両端にオコシ船とボッチ船がつく。船頭がボッチ船に乗っており、サグリという糸で、ニシンの乗り具合をみる。オコシ船へ「起こせよう」と合図を送った。
ニシンは夜、昼関係なく来るが、夜の場合が多かったので昼は陸でニシン加工などの仕事をおこない、夜は沖泊まりした。
ニシンの群がくることをクキル(群来る)という。昼にニシンが来たときには、沖にいるボッチ船にいる船頭が、アンバイボウにホシムシロをかぶせて立てて合図する。これをマネをあげるという。それをみると「ほら、マネ上がったド」「いくど」といってオコシ船に乗り、サッカイで漕いで沖に出て網を起こすこともあった。
ドアミのクチマエには幅五〇センチメートル、長さ一メートルの大きなアバを三個つけて、これに滑車をつけてニシンが網に入るとクチの網をあげて、ニシンが逃げないようにした。これはボッチ船から操作する。アバは一番、二番、三番と三か所に取り付けてあった。
オコシ船にはオヤジという副船頭が役割をする者がトモ(船の後部)におり、網起こしの現場の指示を出した。また、オモテガカリといってこれを補助する者がオモテ(船の前部)にいた。オヤジがタチバ(トモのトモガイを扱うところ)にいて、ここからカギで網を引っかけると若い者がこれにとりつき網を起こした。この時、作業の歩調をあわせるためにあげるかけ声をキリゴエといった。網を引きあげるときには、ヤサカギを引っかけて、網にとりついてあげていった。網は船に引き上げるのではなく、たぐりながら船縁から下ろしていった。
一番のアバのところまであげると、これをゆるめてクチ網をおろした。これを「一番デッコ」(デッコは投棄の意味)という。網をあげるに従って「二番デッコ」、「三番デッコ」をおこない、ドアミのクチをあけ、次のニシンがドアミに入るようにした。
クリコシの綱で船の進みを調節した。クリコシの操作はオモテガカリがおこなった。ニシンが乗っていると網を下に持っていかれることがあるのでクリコシの綱で調節する。これは難しい仕事で、網を起こしながらおこなうのでクリコシの操作は足でおこなった。
ボッチ船に近い方の網をタテアゲといった。網起こしがタテアゲまで来ると、ニシンをボッチ船に取り付けたフクロに流し込んだ。小建網では、普通ワクブネを用意することはなく、ニシンはフクロに入れた。
ボッチ船に三〇石から五〇石のニシンが入るフクロをつけておいて、いっぱいになれば口を閉めて、ダンブ(目印のウキ)をつけてはなし、次のフクロを用意した。漁が一段落してから、フクロからニシンを汲み取る作業をおこなった。このときには、海に沈めておいたフクロをボッチ船につけ、クチをあけてオコシ船で汲み、陸まで運んだ。
ボッチ船をワク船として使うこともあった。ワク船は舷側の内側に丸太でワク(網)を固定し、海中に垂らした。ドノマの付近にクチを付けて、ニシンをそこから流し込む。ワク船よりオコシ船の方が大きかった。ワク船には四人、オコシブネには八人から一〇人が乗っていた。船頭はワク船に乗る。オコシ船にも船頭は乗っているが、網起こしの指示はワク船に乗っている船頭が出す。ワク船は発動汽船(焼き玉エンジン)で引いていった。
網起こしの時に使用する道具としては、先に述べたヤサカギのほかにアンバイ棒とコタタキ棒があった。ヤサカギは網を上げるときやワクやフクロからタモ網を使ってニシンを汲み上げる時に、タモ網に引っかけて引っ張り上げるのに使用した。アンバイ棒は、タモ網の先を押してニシンの中に入れたり、船と船の間隔をあけるためにも使用できるもので、先が二股になっていた。コタタキ棒は、網の中で産卵されると網の目が詰まったり、網を持つとき滑るので、たたいてホロイ落とすためのもので、ガンピの枝を使った。
ニシンを積んだオコシ船は、陸に着けて歩み板を渡し、女の人を中心にモッコでナツボに運んだ。後にはナツボまで船を巻き上げるようになった。これにはウマボウ(馬棒)を使い、馬一頭で巻きあげることができた。ナツボは屋外に作ったが、後には屋根をかけたローカ(廊下)を使うようになった。
ニシンは、何日かおいてからカズノコをとり、その後を粕に炊いた。人数が足りないので、手数のかかるミガキニシンは作らなかった。
漁が終わって切りあげて来るとき、船は外に冬囲いをしたが、ローカがある時にはそこに船をしまうようになった。