歴史的変遷と現状

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 現在の銭亀沢地区は、江戸時代以前から、漁村として栄えてきた地域であるが、基幹産業である漁業の隆盛や衰退、道南地域全体の社会経済変化と呼応するように、時代とともに変化してきた。地区内における社会階層の形成や崩壊は、特に基幹産業である漁業のあり方の変化と深くかかわっている。
 江戸時代以降の銭亀沢地区における漁業と社会階層の変化は、次に素描するとおりである。
 江戸時代には、鰯漁や昆布漁などを中心に栄えた純漁村であり、青森の津軽地域、南部地域や岩手、秋田などから、多数の者が移住してきた。漁民の間には、鰯漁の親方(網元)や昆布の取れ高の高い富裕層と、一般漁民層の二つの階層が存在していた(第一章第四節参照)。
 明治時代に入ると、地元での冬の鰯漁と夏の昆布漁、それに春から夏にかけての道内の鰊場や樺太(サハリン)、カムチャツカ方面への出稼ぎが、この地区の生業の中心となった。特に鰯漁は、明治三十年代から昭和十四年頃までは大漁がつづき、地区の中心的な漁業となった。この結果、階層分化がさらに進み、少なくとも昭和二十年代末までは、二つの階層が明確に存在しつづけた。下層の漁民は、出稼ぎ、昆布の採取と鰯漁を主な生業としていた。
 昭和十一(一九三六)年、銭亀沢村は全道初の季節職業紹介所を開設し、四月から六月、十月から三月までの二季にわたる漁期、農期、その他の季節的求人求職の需要に応えた(昭和十一年十一月十二日付「函日」)。銭亀沢村は、北洋漁業など出稼ぎ漁夫の供給地であった。昭和十五年頃から鰯漁にかげりがみえはじめ、二十年代の終わり頃には、鰯漁はおこなわれなくなり、烏賊漁と昆布漁そして出稼ぎが生業の中心となった。また鰯漁の衰退は親方層の経済的な衰退の原因の一つとなった。このため昭和二十年代の終わり頃から漁業の操業形態が変化し、集団的なものが少なくなり、個人や世帯が単位となっていった。これに加え、一般漁民の出稼ぎによる収入の増加が、これまでの社会階層を突き崩していった。
 昭和四十八年頃には、昆布の養殖漁業が導入され、世帯単位での経営が中心となる一方で、漁家の収入が向上・安定し、かつてのような階層差が消えていった。また、一般漁民層から、水産加工や商売、一般の勤め人などに転じる人も多くなり、特に高度経済成長期には、多数の男性村民が首都圏に建設労働者として出稼ぎにいった。昭和四十五年以降、国道の整備や若者の進学などにより、函館市内やほかの地域への就職・他出がみられた。これらのため、地区内の漁家の数は減少し、かつ高齢化が進んでいる。
 このように銭亀沢社会は、鰯漁の衰退を一つの契機として、日本経済の変化に対応しながら純漁村から函館市の一市街地へと変貌してきたのである。