婚姻

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 銭亀沢地区全体は、明治時代以前から対岸の青森の津軽や南部との結びつきがつよく、移住以外にも多数の女性が東北地方から婚入してきたことが知られている。ここでは、志海苔、古川および石崎の婚姻について述べる。
 昭和四十年頃までは、結婚相手は、その親が決めることが多かった。祖先の出身地が、津軽や南部、秋田であったり、世話をする人が青森出身であることが多かったために、地区内の男性は見合い形式で東北方面や地区内から嫁を迎えることが一般的であった。明治期には、津軽の農家の人びとは、「松前(当時の道南一帯の総称)に嫁を出せば金がかからない」といっていたという。一方、地区内の女性は、地区内や隣の戸井町の男性と結婚する傾向が強かったようである。
 結婚相手を探す場合、仲に立つ人が家格が釣り合うような人を探し紹介してくれたので、同じ社会階層に属している者の間での婚姻が一般的であった(松田トシ談)。親方層の婚姻は、社会的に同格とみなされる家や家柄のよい家との婚姻が多く、一方、一般の漁民層の人びとは、昭和二十年頃までは、地元の人や青森の人と結婚することが多かった。また、男性の中には、出稼ぎ先の鰊場や樺太などで知り合い恋愛結婚をした人もいた。
 一般的に、結婚式も簡素で、自宅で、親族と五軒から一〇軒ばかりの近所の方を招いておこなう程度であった。披露宴のお祝いだけの場合が多く、料理は近所や親戚の者が作った手料理であった。新郎新婦は現金やお酒のご祝儀をもらい、尾頭付きの魚や生菓子をお返しとして贈呈したという。また、炉端祝言(ろばたしゅうげん)と呼ばれるように、式をあげず、うちうちだけで祝言をすませる人たちもいた。
 現在では、婚姻圏は函館市はいうに及ばず、本州やほかの北海道地域にも広がっている。この婚姻圏は、昭和四十年代から急速に拡大した。
 結婚式や披露宴は、戦後、一時は漁業協同組合の会議室や公民館で会費制で簡素におこなわれていたが、現在では函館市内のホテルや結婚式場で盛大におこなわれるようになり、招待客も、隣近所や親戚のみならず、新郎新婦の友人、学校の恩師や、職場の同僚や上司をふくむようになっている。仲人も漁業協同組合の幹部や近所の人が多かったが、最近は当事者の職場の上司がなる傾向がある。