現在の漁業協同組合は、昭和二十三年に制定された水産業協同組合法に基づいて設立された。銭亀沢地区では、根崎漁業協同組合、宇賀漁業協同組合、銭亀沢漁業協同組合、石崎漁業協同組合の四つが、この新しい法制度のもと設立された。また、昭和二十年には、全道的に漁村の政治・経済・文化の向上を図るための自主的民主体制を確立する目的で、漁村青壮年同盟なども結成されている(昭和二十年十一月十五日、十二月七日付「道新」)。
昭和二十六年の「農林漁業協同組合再建整備法」実施による奨励金交付対象組合全道一〇九漁業協同組合の中に、銭亀沢、宇賀、根崎の三漁業協同組合が名を連ねている(昭和四十四年『続北海道漁業史』)。
昭和二十三(一九四八)年から平成八(一九九六)年にかけ、根崎漁業協同組合、宇賀漁業協同組合、銭亀沢漁業協同組合、銭亀沢中央漁業協同組合(昭和三十五年から昭和五十四年まで)、石崎漁業協同組合の五漁業組合が存在してきた。各漁業協同組合の概要は、表3・3・8のとおりであり、各組合とも組合員数は減少の一途をたどっているというのが、現状である。
表3・3・8 各漁業協同組合の概要
組合名 | 設立年月日 | 地区 | 歴代組合長(在任期間) | 組合員数 |
根崎漁業同組合 | S.24. 6. 8 | 根崎、高松 | 瀬川猛(S.27~30)→ | 昭和40年代中頃から200名を恒 |
松岡菊蔵(S.31~38)→ | 常的に割り、60年代前半に100 | |||
瀬川猛(S.39~56)→ | 名を割る | |||
金沢政太郎(S.56~61)→ | ||||
橘勲(S.62~ ) | ||||
宇賀漁業協同組合 | S.24. 7.15 | 志海苔、根崎、 | 中宮亀吉(S.24.6~25.3)→ | 昭和45年に100名を割り一貫し |
赤坂、瀬戸川、 | 菊地栄右門(S.25.4~25.10 )→ | て減少傾向 | ||
高松の一部 | 高野福三郎(S.26.2)→ | 平成7年3月現在59名 | ||
藤谷作太郎(S.26.6~H.6.7)→ | ||||
菊地健悦(H.6.8~ ) | ||||
銭亀沢漁業協同組合 | S.24. 6.28 | 銭亀、(新)湊 | 蛯子綱太郎(S.24~25)→ | 昭和34~54年まで組合員の一 |
古川、石倉 | 柴田梅太郎(S.26~40)→ | 部が分離し、銭亀沢中央を組 | ||
川村澤太郎(S.41~49)→ | 織したため、その間減少 | |||
佐藤藤太郎(S.50~54)→ | 昭和32年度の508名をピークに | |||
柴田梅房(S.54~H.2)→ | 減少 | |||
辻囗初男(H.3~ ) | 平成7年3月現在244名 | |||
銭亀沢中央漁業協同組合 | S.35. 3.1 | 銭亀のみ | 藤井富男(S.35~39)→ | 昭和46年頃100名を割る |
~54. 11.1 | 松田松三郎(S.40~45)→ | 再併合時は49名 | ||
小林兵一(S.46~54) | ||||
石崎漁業協同組合 | S.24. 6.10 | 石崎、鶴野、 | 村田平太郎(S.24~35.3)→ | S.27:300名 S.63:171名 |
白石 | 倉部勇太郎(S.35.4~55.3)→ | 37:292 H.1 :168 | ||
沢田政蔵(S.55.4~56.7)→ | 47:258 5 :149 | |||
荒木健一(S.56.8~ ) | 57:242 7 :140 | |||
58:193 |
二、三の漁業協同組合の説明を付け加えるならば、宇賀漁業協同組合では、歴代組合長のうち、高野福三郎まではいわゆる親方層の出身であった。藤谷作太郎は、北洋漁船の船主であり、底曳や烏賊漁もおこなっていた。また、菊地健悦は北洋漁船の乗組員であったが、引退して地元で昆布の養殖漁業をはじめた人物である。地元の人びとによると、かつての鰯親方でない人が組合の中心人物になったのは藤谷組合長からで、理事の多数はかつての親方層出身者が選出される傾向があるとのことである。また、銭亀沢漁業協同組合では、昭和四十年代から五十年にかけて、組合の執行部に一般の漁民層出身者がはいるようになってきたという。この組合は、前掲表3・3・8でもわかるとおり、他の組合と比べると、組合員数が比較的安定しているといえる。しかし組合員の高齢化は進んでおり、同組合の調査によると、平成四年六月現在の年代別の組合員構成は、二〇歳代三名、三〇歳代一六名、四〇歳代四五名、五〇歳代八八名、六〇歳代八八名、七〇歳代二九名、八〇歳代八名で、五〇歳から七〇歳までの漁民(組合員)が多いことがわかる。石崎漁業協同組合の場合は、三代目の沢田組合長までは親方層出身であった。また、同組合では、原則として一世帯から一人の組合員をだしているため、組合員数は漁家世帯の数を意味している。組合員数、すなわち漁家世帯数は、組合員の高齢化と後継者不足のために減少をしてきたが、特に、昭和五十七年度から五十八年度にかけて組合員数は大きく減少している。
最後に、一時期(昭和三十五年から五十四年)設立された銭亀沢中央漁業協同組合について、組合設立の経過などについて触れておく。銭亀沢中央漁業協同組合は、昭和三十五年三月一日に銭亀沢村銭亀のみを区域として、新たに設立された。この設立は、組合の運営をめぐる対立、そしてその背後にある昆布の漁場をめぐる地区間の対立と争いが原因であった。しかしこの新しい漁業組合の設立によって、その組合員は、旧組合員の持つ共同漁業権、昆布、ワカメの採取権を自主的に放棄した形になってしまい、新組合の設立の翌日から生活のできない状況に陥ってしまった。このため、渡島東部漁区漁業調整委員会や、北海道の水産部漁業調整課が調整に乗り出すという事件もあった(昭和三十五年四月一四日付「道新」)。その後組合の経営がいきづまり、昭和五十四年十一月一日に、無条件で銭亀沢漁業協同組合に合併された。