[銭亀沢地区社会の変化]

289 ~ 290 / 521ページ
 明治時代以前に形成されていた石崎村、銭亀沢村、志海苔村、根崎村の四村が明治三十五(一九〇二)年に合併され銭亀沢村が誕生した。同村は、昭和四十一(一九六六)年に函館市と合併、行政上、銭亀沢地区として現在に至っている。この銭亀沢村や銭亀沢地区は、一つのまとまりであるというよりは、一四の字の集合体であると考えたほうがよい。銭亀沢地区の日常生活においては、字や隣近所が重要な社会単位であり続けている。
 銭亀沢村の経済基盤は、江戸時代より同地区での昆布漁や鰯漁、そして鰊場(その後は北洋漁業)への出稼ぎであった。特に、明治時代から昭和十年代にかけては同地区での鰯の地曳網漁が栄え、経営者としての親方と一般の漁民との間には明確な経済階層が形成された。鰯漁の親方たちは経済的に裕福であったが、漁業経営の形態が漁夫の雇い制ではなく歩合制であったために、本家・分家関係に基づく同族経営ではなかった。このため銭亀沢地区の本家・分家関係は、経済関係としてではなく、主に冠婚葬祭の際に機能する社会関係であった。一方、地区内の一般漁民は、鰯漁と昆布漁や磯漁に従事したが、大半が出稼ぎを主としており、親戚間や隣近所での相互扶助の精神と実践が顕著にみられた。
 昭和二十年代に入り、同地区での鰯漁の衰退とともに鰯漁を経営する親方層は経済力を低下させていった。一方、昭和三十年代前半の北洋漁業への出稼ぎ、高度経済成長時代を迎える昭和四十年代の首都圏の建設労務への出稼ぎ、昭和四十年代後半からはじまる昆布の養殖漁業の成功などにより、一般漁民層の経済力の向上がみられた。このような過程を経て、経済階層は全体的に平準化してきた。一方で、地区内でのかつての親方層の社会的影響力は昭和五十年頃までは強かったものの、以後は漁業協同組合の組合長や、学校のPTA会長、氏子総代や町会長などに一般漁民層出身の者がつきはじめた。昭和四十年代を境に、地区内の階層構造や権力構造に大きな変化がみられたといってよい。
 銭亀沢地区の社会変化は、全国レベルや函館市を中心とする道南地域のレベルでの社会経済変化と連動しており、この地区の変化は全国各地の近郊漁村で起こってきた変化に相通ずるところも多い。特に昭和三十年代から四十年代にかけての日本の高度経済成長期には、漁家離れがみられ、都市への出稼ぎやサラリーマンへの転職などが顕在化した。同時に銭亀沢地区は、より広範囲な函館圏に住宅地として取り込まれてきた。また、若年人口が就学や就職のために地区外に転居したり、地区外に通勤、通学しはじめている。内に閉鎖する傾向にある社会から、外に開かれた社会へと変化していったのである。
 銭亀沢地区の家族、親族関係や近所付き合いにも高度経済成長期にあたる昭和四十年代に大きな変化がみられた。地区内の世帯は核家族化し、小規模になってきた。人の移動や職業の多様化にともない、生活パターンに世帯差や個人差がみられはじめ、若者を中心に親戚付き合いや近所付き合いの密度が薄くなってきている。また漁業協同組合や町会など諸集団の地域の生活全体に果たしてきた役割も漁家世帯の減少にともない低下している。
 銭亀沢社会全体は、昭和四十年代以降、特に昭和五十年代に、急激に、出稼ぎ漁村社会から漁村的側面を残しつつも都市近郊住宅地社会へと変化してきたといえよう。