近代の勝願寺

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 この妙応寺と並んで、比較的史料をよく伝存している浄土宗勝願寺の、近代における動態を探ってみよう。
 『北海道寺院沿革誌』で、この勝願寺の来歴について、その建立の年時と開基名、本寺名を確認したが、勝願寺が寺宝として伝える「由緒書」(明治二十七年)によると、勝願寺の前身・求道庵(当時「亀田郡石崎村字中村壱番地」、本尊「阿弥陀如来」)は、明暦二(一六五六)年、称名寺の末寺として僧求道によって開基され、明治二十七(一八九四)年の九代住職北村霊瑞の頃には、壇信徒一八〇戸を数える地内有力寺院となっていたのである。この明治二十七年は、勝願寺にとって、「本堂庫裏」の大改築を実施した画期的な年であった。青江秀の「北海道巡回紀行」によれば、石崎村の有力者として、松代孫兵衛がいた。明治二十七年の頃、この松代孫兵衛が、村田長右衛門、久保田左七とともに、壇家総代を務めており、改築事業に力をなしていたことが、寺伝の「本堂庫裏改築願」なる文書によって知られる。
 北村霊瑞は、その「履歴」(寺伝史料)によると、弘化元(一八四四)年、東京浅草に平民の三男として生まれ、嘉永元(一八五三)年、千葉県の西光寺で出家得度、のち安政六(一八五九)年から文久三(一八六三)年まで求道庵の八代貫名了道上人のもとで修学。文久二年、その了道上人より、九代目を相承した。
 北村霊瑞は、行財政の面でかなりの敏腕家であった。たとえば、明治四十三年、境内に隣接する石崎村字中村野の四畝一反の「未開地」を、払下げを受けようとして、壇家総代の松代孫兵衛らとともに、函館支庁長河毛三郎に願い出たことがある。さらに、大正三(一九一四)年、石崎村字中村三番地の七畝三歩の「旧墳墓地」の借用契約が満了したのをうけ、許可手続が遅れがちなことを憂慮して、入念な「請願書」を提出したこともあった。
 この「旧墳墓地」の請願書といい、前の「未開地売払願」といい、いうなれば、求道庵の寺勢拡大以外の何ものでもない。北村霊瑞は、地内の有力な壇家総代の松代らと手を携え、求道庵の寺勢拡張に、一際大きな力を発揮した、まさに傑僧であった。
 北村のこうした寺勢拡大の策が功を奏してか、明治二十七年には一八〇戸であった壇家数が、二三年後の大正六年の頃には、二三一戸と約三割も増えていた。地内の壇信徒に支えられた着実な寺勢の拡大の結果、大正八(一九一九)年十二月二十六日に、「求道庵」改め「勝願寺」へと寺号を公称した。まさに「庵」から「寺院」への一大飛翔の日であった。こうして寺号公称を許された勝願寺は、以後、順調に寺勢を拡げて、昭和の時代へと入っていく。
 勝願寺と地内の壇家との密接なる結びつきを示す一つの例証として、今も寺内に残る昭和六年の「西国丗三番石像観音尊芳名帳」がある。これは、文字通り地区内における「観音講」の存在を裏づける史料で、この芳名帳には、実に二三三人の名が連ねられている。この数の人びとが、後述するように「観音講」という航行安全の守護神である観音菩薩に日々、漁業の安全、出征時の平穏を念じたものと思われる。