戦時下の寺院

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 近代日本の海外進出の鋒先は、中国を中心とする東アジア世界へと向けられていたが、とりわけ昭和六年の「満州事変」以後における日本の中国への侵略が、苛烈を極めた。その中にあって、銃後の地区民や寺院の戦時下におけるかかわりはどうだったのであろうか。
 国内が戦時色一色に染めぬかれる昭和十七年の頃になると、宗教世界も、「宗教報国会」のもと、戦争勝利の祈願ないしはその慰問・弔意に明け暮れることとなる。戦争協力という点では、キリスト教教会も含めて、国内のすべての宗教団体は同一の歩調をとることを余儀なくされていた。
 北海道仏教会も、「皇室尊崇並ニ祖先崇拝ノ念ヲ一層深カラシメンコトヲ期ス」(綱領一)、「正シキ信仰ノ上ヨリ仏事ノ真意義ヲ体シ迷信ノ打破ヲ期ス」(綱領二)、「日本精神ヲ昂揚シ生活ノ更新ヲ期ス」(綱領三)という「大政翼賛実践綱領」にもとづいて、戦時中、「天皇制」と一体となって戦争の遂行に協力していった。「皇室尊崇」(綱領一)と「日本精神」(綱領三)の昂揚を寺院に強要したということは、文字通り、寺院を「近代天皇制」の推進主体に位置づけていたことを意味する。
 綱領一の「実践事項」はさらに次のように規定する。「寺院及ビ教会ニ於テハ祝祭日ノ会合ハ申スニ及バズ、特殊ノ会合ニハ必ズ宮城遥拝並ニ「君が代」ヲ奉唱スルコト」、「寺院ニハ皇恩報謝ノ為メ天牌ヲ奉安セルニヨリ、特ニ敬虔ノ念ヲ以テ拝礼スルコト」、「陛下ノ御写真又ハ御尊影ハ家中最モ神聖ナル場所(例ヘバ床ノ間、正面鴨居ノ上)ニ奉安シ、新聞雑誌等ニ奉掲ノ皇室関係ノ御写真ハ之ヲ切リ取リ、清浄ナル入レ物(尊皇袋ノ類)ニ納メ不敬ニ亙ラザル様、注意スルコト」。このように、「皇室尊崇」の一部始終を事細かに指示し、寺院を通して、「近代天皇制」の護持ひいては「皇国軍」の戦勝祈念を、地域住民に浸透させていったのである。
 
表3・4・3 昭和9年の社寺の氏子・壇家戸数
社格宗教名 称住  所信徒又は壇徒祭  日
指定村社八幡神社字志海苔1378月15日
同 村 社八幡神社石崎2969月3日
同 村 社八幡神社字銭亀1358月17日
無 格 社川濯神社字古川町1758月20日
同 格 社川濯神社字根崎2768月16日
同 格 社稲荷神社字湊1448月18日
神 習 教白木教会字長坂5055月9日
真宗興正派石崎説教所字鶴野236   -
天 理 教宣 教 所字湊420   -
日 蓮 宗妙 應 寺石崎165旧6月1日
真宗大谷派觀 意 寺石崎120   -
曹 洞 宗善 寶 寺石崎110   -
浄 土 宗勝 願 寺石崎230   -
浄 土 宗大 願 寺字銭亀263   -

『村勢一班』より作成
 
 銭亀沢の仏教寺院も、天皇制の尊祟にひたりながら、昭和の戦中期を、それぞれ壇信徒とともに過ごしていたのである。
 昭和期の神社と寺院の氏子・壇家戸数を、昭和九年の『村勢一班』によってみると表3・4・3のようになる。
 この氏子・壇家戸数には、大正七年の「函館支庁管内町村誌」の段階では確認されていない宗教団体が散見するのに気がつく。一つは、いわゆる教派神道一二派といわれる「新宗教」の一つの「神習教」(白木教会、一般に、「白木神社」)である。これについては後述することにして、ここでは大正十年から昭和九年の段階で、氏子数五〇五戸を擁する宗教団体であったことだけを確認しておきたい。二つ目の新たなる宗教団体は、浄土真宗興正派である。この石崎説教所(今日の西願寺の前身)が、大正九年から昭和九年の間に石崎地区に進出していたことになる。
 これによって、地内の六か寺の仏教寺院のうち、五か寺が石崎地区に集中していたことがわかった。石崎地域は、あたかも「宗教ゾーン」のようである。
 もう一つの新規なる宗教団体として、湊地区に宣教所をもった「新宗教」の一派である「天理教」がある。この「天理教」も、おそらく、昭和期に入って、徐々に、函館市街の「天理教」の教線発展の結果、銭亀沢地区にも進出してきたものであろう(「戦時下の宗教」『函館市史』通説編第三巻)。
 ともあれ、銭亀沢地域に「神習教」と「天理教」の二つの「新宗教」が教線を伸ばしたことは、この地の宗教的な特性を示すものとして大いに注目される。