漁に出る男たちの弁当は、一家の主婦が作った。大きな船を出すホッケ漁の時には若い衆の分まで船主のおかみが作った。それは船主のおかみの重要な仕事であった。イカつりやマスつりなど小さな舟で出かける時には、若い衆は各自で弁当を用意した。
ホッケ漁にでる男たちが持つ弁当用おひつにはご飯を入れた。そのおひつは二〇×四〇センチメートル、高さが約一五センチメートルの、四角い木製の箱のおひつであり、長期間にわたって使用、洗浄が繰り返され、かなり黒ずんでいた。ホッケの焼き魚や漬物はアルミ製の大きな弁当箱に入れて運んだ。
五月から八月末にかけて男たちは北千島や樺太に出稼ぎ(建網漁)に行った。一月分の給料として五〇円が会社から送られてきた。千島に行く時には函館から船が出るが、この時は船の中で食事を作るので弁当は持たなかった。樺太行きの時は、船が小樽から出るので、小樽までの汽車のなかで食べる弁当と、船で食べる弁当の二つを持った。ご飯はおにぎりにした。中身は恵山で作られていた梅干しとシソを入れ飯の上に塩と胡麻をつけ、日持ちのするように焼きおにぎりにした。おかずは、タクアンの漬物と焼いた塩引き鮭である。北洋への出稼ぎにいった父親が会社から塩引き鮭をカマスでもらって来たが、一斗樽につめ、塩水を入れて貯蔵した。