根崎の川濯神社の拝殿正面に掲げられている扁額には「明治二十五年八月十七日奉納」「若者組」「世話人」「若者中」とあり、この頃根崎には若者の集まりとして若者組のあったことがわかる。根崎では「開村当初から、若い者頭を中心に寄り合いをして部落の運営にあたってきた」(渋谷道夫「道南の民俗その1」『函館郷土史研究会講演第六集』)が、やがて若者の寄り合いは「親睦と奉仕の団体」となり、名称も青年武道会から青年会、青年団へと変わり、大正に入ると全国的な青年団体の組織に再編されていった(第三章第二節参照)。
青年団は神社の祭りには奉納相撲や余興大会を主催して村民を楽しませ、教養の向上にと弁論大会を開き、またコンブ礁の投石作業など公共事業にも参加した。しかし三月から五、六月にかけての出稼期には不在の団員が多く活動は中止しなければならなかった。
昭和九年三月の函館大火のさいは、樺太漁場への出稼ぎの日取りが切迫しているにもかかわらず、団員は一週間にわたり避難民への援助や漂着した遺体の収容・捜索に懸命に努め、女子団員も炊き出しや打ち上げられた衣類の洗濯・整理にとよく働き村長の称賛をうけたことが当時の新聞に記載されている。
村内の若者の多くは高等小学校を卒業すると、仕事の合間をぬって青年学校に通い、青年団の活動に参加した。やがて二二歳頃から消防団員になった。青年学校は宇賀、銭亀、石崎の各小学校に大正十五年青年訓練所として併設されたが、やがて昭和十年に青年学校と改称され、昭和十四年には義務制となった。ここで軍事教練や実生活に必要な知識技能を学んだ。女子は軍事教練に代えて家事や裁縫の科目があった。