蝦子直太郎によると「私が一七か一八歳のころ当時の五〇歳か六〇歳のおばあさんが、人が死んだ時に歌っていた」という。また、山鼻米子の語るところによれば、「古川町ではこの歌の中心となる人びとが、高年齢の女性であるところからババ拝みとも呼ばれている。また僧侶による儀式が終了した後に歌われるので後拝みとも呼ばれている。さらには、禅宗や門徒宗で歌われるが、その他の宗派でも家族に依頼されると歌われる。特に地域の人びとの人望の厚い人が故人となられたときに歌われることが多い。時としてこれに御詠歌(和讃)を一、二曲程度歌われる」という。
新湊町の中村幸太郎と中村シノブの夫妻は十三仏様の様子を次のように話した。「新湊地域では一の部落の方は古くからやっていたようだが、二の部落ではここ数年前から歌われ始めた。通夜の日に坊さんが帰った後にやるものである。理由はわからないが、生仏(草焼前の仏)の場合はやらない。さらに初七日、二七日(一四日目)、三七日(二一日目)、四七日(二八日目)、五七日(三五日目)、七七日(四九日目)などの法事の際に歌われる(中村幸太郎)。先生に教えて頂いた訳でもなく、ただ年寄りのお婆さんの後ろについて歌っていただけである。これを歌う場合は先立つ人を中心に故人に向かって座る。カネッコ(当鉦)の伴奏でこの歌を一回終わるごとに鈴(りん)を叩く。先立つ人の横でもう一人が、一回終わるごとに賽銭を一枚ずつ置いて行く。一三回歌い終わると一三枚の賽銭を置くことになる。こうして歌った回数を間違わないようにしている。また誰か一人が蝋燭を一三本持って一回歌い終わるごとに一本を投げ、一三回数える方法もあるとも聞いている(中村シノブ談)」。
笠島きみは「石崎町にきてから三〇代で荒木ナツ先生(昭和四十三年八一歳死亡)から大和流御詠歌(和讃)と十三仏を教えてもらった。この十三仏は大変ありがたい御詠歌で、大和流御詠歌を教えてもらう前からこのあたりで歌われていたと記憶している。このあたりの御詠歌は荒木ナツ先生から伝えられ、荒木先生は函館のサカイ先生から習ったと聞いている。荒木先生が健在の頃は、通夜の晩や法事の後にお寺さんが帰った後、寂しくなるので花和讃や修行和讃、岩船和讃などの短いものを二曲程あげた(歌った)。偶に三曲の場合もあり、最後にこの十三仏をあげる(歌う)。集まってきた女の人の誰とはなしに自然発生的に仏とのお別れのつもりで拝んだ(歌った)。二、三年前までは、上げ物(供物)を持って行き、七日・七日に十三仏だけあげて(歌って)いた。歌って頂いた家では茶菓子などを出して労に対するお礼的なことをしていた。現在では三五日と四九日に歌っている。歌わなくなった理由は、主として経済的なものであり、互いに遠慮をするような雰囲気になっている。仏壇前の真ん中に座る人が音頭をとり、その人が伴奏として木魚を叩き、さらに一回終わるごとに鈴も叩く。一段下がって横に座り当鉦を叩く人もいる。さらに歌う回数を間違わないために、一三枚のお金を先立つ人の見える位置に納める人もいる。歌う人は何人でも良い」と述べた。
根崎町の瀬川桂子は、「ここでは十三仏様といい、坊さんみたいにやる人が、仏さんの一番前にすわる。その後方に皆さんが座り、通夜から初七日まで毎晩水上げに行き歌って帰る。マッチの棒で一三回数える人もいれば、蝋燭を一三本使う人もいる。木魚を叩いて伴奏する。門徒宗と法華宗以外どの宗派でもやっている」という。
十三仏で歌われる歌詞の構造を笠島ミエは次のように述べている。「南無十三仏 南無阿弥陀 助け給えよ 十三仏あの世の浄土へ行け給えの部分を前触れと呼び、不動 釈迦文殊 普賢 地蔵ニロク(弥勒)薬師 観音 勢至 阿弥陀 阿しゅく 大日 コクード(虚空蔵)の部分を文句あるいは、お経(それぞれの仏様の教えを説いたお経を冒頭の言葉だけを並べて読む読経の方法と同一の形)と捕らえていた。従って二つの部分に分かれていて特に後段の部分が大切であると理解していた」。それぞれの歌詞については譜例上に記してあるので省略する。譜例4は調査地域外の上ノ国町の伝承であるが、参考として示した。譜例5は石崎町、譜例6、譜例7は古川町、譜例8は根崎町の伝承事例である。譜例9の志海苔町の伝承事例は、門徒、浄土、曹洞宗の場合である。
譜例4 南無十三仏
譜例5 十三仏
譜例6 十三仏
譜例7 十三仏
譜例8 十三仏
譜例9 南無十三仏
次に十三仏の楽曲構造に移るが、西洋音楽で一部用いている4小節を一単位とする楽曲構造の分析方法では、理解に困難さを感じさせる。笠島きみの歌詞構造の分析方法が、この曲の構造分析を容易にすると予想されるので、参考にして分析を試みる。この曲は譜例9を除いて13小節で構成されている。譜例4、5、7、8を前触れの6小節とお経の7小節に二分割する。譜例9も同様に分割し、さらに念仏とでもいうべき部分の3小節を加えて三分割する。従って楽曲形式はA‐Bの二部分に分けられる形式が多く、譜例9の様にA‐B‐Cの三部分に分けられる形式もあると理解されるように思われる。前触れをさらに2小節ずつの三つの動機に細分割すると、どの曲も前触れのいずれかの動機、あるいは動機の一部(部分動機)がお経の旋律に変形されて現れている。加えて譜例9では念仏に同譜例の前触れ(第3~4小節)が変形し現れる。旋律がお経に流れ込む部分はどの曲も跳躍進行(3度、4度、5度、7度)を用いている。お経の最初の動機(第7~8小節)ではどの曲も最高音を用いている。前触れの動機(或いは部分動機)が全体を統一する役割を果たし、変化を感じさせるお経の部分の二要素が、この曲の統一性と崇高さを感じさせる。各曲で使われている音域、開始音、音列などは譜例を参考にして頂きたい。5音音階で陽音階の一種と思われる伝承が多い。譜例6は前半のみしか収録出来なかったが、7音音階の自然的短音階に近いと考えられる音階をもっている。
このようにさまざまなバリアント(変形)がある。十三仏を讃え、死者の霊を慰めるこの曲の多くは、13小節で楽曲が構成されている。この地の十三仏は一三の数に不思議な一致を感じさせる音楽である。石田キヨエをはじめ伝承者の多くは「この湊地区の十三仏も他とは少し違う。教える人によっても多少の違いがある」と語り、差異を認識していることがうかがわれる。本来、地域や人によりさまざまな葬式のあり方や方法があったはずである。それが仏教の浸透により仏教各宗派の形式と内容に統一が計られた。僧侶の束縛から離れ、口承伝承に依存しなければならなかった十三仏の中に庶民の死者を弔う思いが隠されていると思われる。地域や人によるさまざまな曲の形は葬式のあり方の反映であり、それがそれぞれの地域や歌う集団により(小差異的ではあるが)歌詞や旋律、歌唱方法などの芸態の違い(バリアント)を生じさせる要因になったのであろう。
また堀一郎は『我が国民間信仰の研究 上』で、「亡霊招降に四国のミコジョウでは十三佛の詠歌と三十三番札所巡礼歌を用いられた」と指摘している。この指摘から銭亀沢地域の十三仏と巫業の関係を予想させるが今後の研究に期待される。