ニシン漁

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 歴史的に古くから交流があったのはニシン漁であり、
『北海道漁業志稿』(北海道水産協会編纂 昭和十年)には次のように記されている。
 
  旧記に拠るに、文安四年(一四四七)陸奥の馬之助と称する者、今の松前郡白符村に来り鯡漁に従事し、慶長六年(一六〇一)爾志郡突符村にも鯡漁を始むと云ふ。<中略>此等の事績を参照するに、慶長以還今の渡島、後志両国漁業、就中鯡若くは鮭漁を為すもの多く、寛文年間に至り漸く増加し、寳永年間に至り愈燉なり。<以下略>其後各地漁場請負人あり、土人を使役して漁業に従事し、或は漁夫を松前及内地より募り、競て漁獲に従事。「タモ網」を廃して差網となし、漁舟亦三半、保津磯各種を用ふるに至る。降て天保年間に至り始て建網を用ひ、大に漁獲を増し、其獲る所は専ら身欠鰊に製して輸出せり。
 
 とあり、陸奥の馬之助の記事の真偽はともかくとして、古くから青森県の漁民がニシン漁へ出稼ぎに渡島半島へ渡ったことを知ることができる。
 特に近世になると、西廻り航路の確立により、上方の農村における肥料としてのニシンの需要が増えて、青森県からの出稼ぎ、移住が著しく増えたと考えられる。青森県下北郡風間浦村の『風間浦村誌』(笹澤善八 昭和十三年)の「漁夫出稼」の項に、文化五(一八〇八)年同村易国間からニシン場へ出稼ぎに行くための渡海切手の発行を肝煎から代官所へ申し出る文書が次のとおり記されている。
 
 一筆啓上仕候、然者御百姓共為渡世之松前へ働に罷越度由願出候者共、
 左之通に御座候
            下風呂村             誰
            〃                誰
            〃                誰
            〆                何人
 右之通に御座候間吟味仕候処相違無御座候、御慈悲を以渡海御切手被下
 置度奉願上候、尤秋中此方へ渡海次第御訴申上度奉存候、以上
    文化五年 月 日
         下風呂村肝煎              仁兵衛
   御下役御両人様宛
 
 また同県東津軽郡平舘村の『平舘村史』(肴倉彌八編著 昭和四十九年)のなかに、安政二(一八五五)年の「松前行人数調」がある。これは、平舘六人、根岸一六人、宇田四人、頃々川七人、石崎九人(いずれも現同村)の漁民四二人が生活に困窮しているため松前のニシン場に出稼ぎに行きたい旨の願書であり、また安政三年の調には、大村、奥平部(いずれも現東津軽郡今別町)の人に平舘村の人たちが雇われてニシン場に行っていると記されていることなどから、当時北海道南部地域に網元・船頭・ヤドイ・船大工・網大工として多くの人びとが出稼ぎに行っていたと考えられる。
 ニシンの需要が増加するとともに、漁法の改良も進められた。刺網から文化年間(一八〇四~一八)の曳網、さらには嘉永年間(一八四八~五三)の建網、明治十八(一八八五)年の角網と改良されたが、特に建網、角網は青森県出身者の開発によるものであり、飛躍的に漁獲量を増大させることに貢献したのである。
 また、明治中期以降になると、北海道津軽海峡前沖でのニシン漁が不漁となりニシン場が北海道沿岸を北上して行く。それにともない両地域の網元やヤドイたちも北上して行き昭和三十年代にニシンが姿を消すまで続くのである。