今から約6千年前の縄文時代前期の初めには気候が温暖化し、間に冷涼期をはさむものの約4千年前の中期末まで、もっとも安定した文化が営まれた。北海道では、その初めに縄文がつけられた尖底土器が使用されたが、やがて道南は津軽海峡をはさんだ両岸付近に中心をもつ縄文が多用された円筒形で平底の円筒土器文化圏内に組み込まれる。
北海道ではこの時期にも石狩低地帯をはさんで、道南と道東で異なった土器文化圏が形成される。道東や道北では詳しいことは不明だが、櫛目文(くしめもん)や押型文(おしがたもん)などの文様がつけられた平底の土器がつくられ、円筒土器とは別な土器文化が営まれていた。
集落の規模がそれまでとは比較にならないほど大きくなったことは、人口が増加したことと安定した生活が営まれたことを物語る。中部地方や関東地方では土掘り具としか思えない大型の石器が多量に出土すること、竪穴住居跡から時おりパン状やクッキー状の炭化物が出土することなどから、原始的な農耕が行われた可能性も指摘されている。
東北地方北部と道南でも木の実や球根をすりつぶすために使用されたと考えられる石皿や磨石が多くみられるほか、クリなどの堅果やソバの種実が出土し、ヒエ属の炭化した頴果(えいか)もいくつかの遺跡から出土することから、植物採集や植物の管理栽培が食料確保の重要な部分を占めていたと推定されている。気候の温暖化で豊富になった植物を大幅に利用することによって、飛躍的に増加した人口を支えることができたのに違いない。