先に述べたように、明治14年(1881)国会開設の大勅が煥発され、明治23年(1890)帝国議会開設が明らかになるや、国民の政治への関心はいやが上にも高まっていった。
北海道では、函館を初めとし小樽、札幌などの新聞が、本州での自由民権運動の情勢を積極的に報道し、人々の政治への関心を促し、民権の啓蒙と行動に指導的な役割を果たした。そして、明治20年(1887)12月、北海道にもようやく有志らによる「北海道雄弁会」が発足し、道内での民権運動への動きが見え始めた。
1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布。続いて議院法・衆議院選挙法・貴族院令(これにともない元老院は廃止される)が公布、北海道は、沖縄、小笠原とともに「将来一般ノ地方制度ヲ準行スルノ時ニ至ルマデ、ソノ法律ヲ執行セズ」と「法律第三号」の定めにより除外されたのである。しかし、このことに対しては、全国各地で反対する意見が起こった。当然、当該の北海道に於ても、その声は昂まった。
久松義典は「立憲王化(立憲君主制)の徳に浴し、進んで自治自由の新人民と為さらねばならない」と説き、北海道会は「他道(北海道以外の府県)は、人口稠密(しゅうみつ)(人口密度が濃い)し賃金低落し貧困者の生計に迷ひ、(北海道へ)移住を要するもの年々多きを加ふる。而巳(のみ)ならず、露西亜(ロシア)は樺太(サハリン)に六大監獄(監獄とは道路・鉄道・鉱山などの技師、労働者の合宿所をさす)を設けて日夜図南(となん)の略(南下策・日本侵略)を怠らず、吟薩克(コザック)兵の増加と言ひ西北里亜(シベリア)鉄道の延長と言ひ、北門の鎖鑰(さやく)(北海道の重要港湾)も亦一日も忽諸(こっしょ)(ゆるがせ)にす可らず」と主張するなど、久松義典の『自治制論』、松田学の『北海道地方制度』等はひろく道民の世論を喚起した。そして、「本道は新開の土地と言ふとも函館、江差、小樽、札幌、根室等は既に繁華な市街を形成し、完全なる自治権有せざるは各種の弊害生ずべし」との請願が小樽区から提出され、自治制の実施を要望する声が昂まりは函館・札幌・小樽区の有志らの中央への請願行動となって現れてくる。
こうした世論を背景に各政党の動きも活発となり、翌年1890年(明治23年)11月25日に招集された第1回帝国議会に、自由党議員高津仲次郎の建議「北海道に地方議会設くるの議」、改進党議員松本久太郎の緊急動議「本道行政組織変更に関する建議」が出され、続いて第2回議会には「北海道議会法律案」が提出されたが、いずれもたち消えとなった。さらに、1893年(明治26年)12月10日には、衆議院議員百方梅政治・工藤行幹・福田久松・加藤政之助が、同佐藤文兵衛外35人の賛成を得て「北海道会法律案」を提出したが、この法律案もうやむやのうちに葬り去られ日の目を見ることがなかった。すなわち、北海道はいわゆる植民地であり、経済力に於いて自治制は到底不可能であるとされ、1879年(明治12年)第17号布告の郡区町村編成法による、区は区長、町村には戸長を置き行政を行う開拓使時代の制度そのままであったのである。
政府自らが(北海道の)地方議会の必要性を認め『北海道会法』を提出したのは、議会も回を重ねること第15議会のことであった。そして、1897年(明治30年)5月、勅令第158・159・160号により「北海道区制、北海道1級町村制・2級町村制」の公布をみたのは、明治21年に、本州府県の「市制町村制」が制定された後、9年目のことである。
自治制を求める全国的な世論、議会での度重なる提案・動議があったにも関わらず、政府が、9年もの長きにわたり北海道の市制町村制に対して頬かむりをしてきた理由は、政府が懸念するように、確かに、①松前藩が統治・一時幕府が直轄地にしたとはいえ、その大部分がアイヌの居住地・和人の殖民地であり、漁業、鉱物・木材資源、広い土地などに恵まれてはいるが米が全く取れず、経済力が弱いこと。②早くから開けた一部を除いて人口の密度が低くいわゆる成熟した都市形態を為していないこと。③政治的行政的な指導力をもつ人材に乏しいなどが上げられよう。
だが、もう1つ理由があったのではないかと推測する。
前出、桑原真人(札幌大学教授)のレポート『近代北海道の移住と開拓について』の「開拓使時代(明治二~十四年)」・「三県一局時代(明治十五~十八年)」の<開発の特色>を、ともに、『士族授産(直接保護)』と、まとめている。特に3県1局時代では、士族移住の強化を図るため、明治16年6月には移住士族取扱規則を設け便宜を計らっている。
つまり、このこと、士族、あるいは士族籍の高級官僚への土地払下げを進めるためには、本道の自治制・市制町村制の実施をいましばらく引き伸ばす必要があったのではないかと見るのは、穿った見かたであろうか。先出、桑原真人(札幌大学教授)は、レポート『近代北海道の移住と開拓について』の中で、土地払い下げについて、次の資料を取り上げている。
『一八九三年(明治二十六年)北海民燈第拾號』
『北海民燈第拾號(明治二十六年一一月)』より
「原田東馬に社会の制裁を加ふべし」との見出しで、北海道庁属原田東馬なる者、その身地理課長の要職に居り本道の土地貸下を主掌し居るにも拘らず、妻子親族の名義を以て、幾百万の地積を占領し居ることは、風に吾人の耳にする所なり、然り而して「北門新報」は、客月廿二日発行の同紙七百廿五号に、鳴呼本道官吏と特筆大書して左の如く記せり、
・幌向タップにて原田らが所有する地所、十万坪/原田種雄、十万坪/新田由平、十万坪/原田とよ、十万坪/原田種雄、十万坪/大膳亮好庵、十万坪/原田種雄、十万坪/原田種雄、十万坪/原田種雄、十万坪/原田種雄
・幌向馬追原野にて原田らが所有する地所、四万四千三百貮坪/原田みよ、四万千二百三十四坪/原田みよ、四万三千百五十坪/深澤朝光、四万七百四二坪/原田種雄、十万坪/原田種雄、四万三千三百七十坪/深澤朝光、十万坪/金田吉郎、十万坪/原田種雄、十万坪/原田種雄、十万坪/榊原勝行、六万坪/原田種雄、六万坪/原田種雄、六万坪/多賀谷せを
・幌向タップ及び幌向馬追二原野にておいて原田らが所有する地所、九十四万七百四十二坪/原田種雄、二万二千坪/原田種雄、九万坪/原田東馬
(中略)原田種雄とは誰ならん、原田東馬の男ならん、原田とよは原田みよとは、誰ならん、蓋(けだ)し地理課長の妻ならん、女ならん、然らざれば妹とならん。而して地理課長は何者ぞ、土地の貸下及び返納処分を掌どるものなり、その子が、一地方に於いて、数百万坪の土地の貸下を受くるを見なば、誰れが愕然として驚き、咄々(とつとつ)然として怪しまざるものあらんや。以上の事実一度社会に見はるるや、世人は罵詈(ばり)彼の不徳を攻め、各地の新聞紙は筆を極めて攻撃を加えたり、その攻撃の先鋒者は北海道毎日新聞、続いて北海、東京朝日、讀賣新聞、報知新聞等(後略)以上、北海民燈第拾號(明治二十六年十一月)「原田東馬に社会の制裁を加ふべし」を抜粋し取り上げたが、土地の払下げを受けた人物ついて若干付け加える。
原田とよ 地理課長原田東馬の妻、原田種雄 同、長男当時一一歳、原田みよ 同、長女当時一三歳、金田吉郎北海道庁経理課長 原田東馬と兄弟、新田由平 札幌区の運送業者で原田東馬の金主(借金があった)等、地理課長原田東馬いずれも何らかの私的な関わりのあった人達であり、標題にもあるように原田東馬が糾弾されるのは当然である。また、このことが果たして特殊な例であったのであろうか。
勿論、以上のことのみを取り上げ、土地払い下げ、総てが不正に行われたというつもりはないが、この当時の北海道の土地払い下げについては、特定の階級(士族・官僚等)への便宜給与が為されたのではないかと推測される。そして、このことが本道自治制の実施がのびのびになった理由の1つではなかったかと思われてならない。
なお、桑原真人(札幌大学教授)は、レポート『近代北海道の移住と開拓について』明治19年から33年まで『初期北海道庁時代』をつぎのようにまとめているので、併せて記載する。
<開発の特色> 開拓の基礎条件の整備(間接保護)
<資金の実績> 九三一万八千円
<おもな施策> ○北海道土地払下規則の制定(明治十九年六月)
○殖民地の選定・区画
○原野の調査(石狩・胆振)
・官営工場の払下
・道路の開削・港湾の築設と改良・鉄道の敷設
・地理の測定
・北海道国有未開地処分法の制定(明治三十年三月)
・北海道拓殖銀行の創設
<人口の推移> 明治三三年の人口 九八万五千人
・十五年間で約三・六倍の増加をみる。