昭和16年12月8日、日本の真珠湾攻撃は、米国の国論を沸騰させ、米国は挙国一致で戦争に突入した。初め日本に有利であった戦局も、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の敗北を契機に、急速に日本側に不利となり、翌年には米軍を中心とした連合国(米英中蘭)軍の本格的な反攻が始まり、ガダルカナル島の敗退をはじめ、各地で日本軍の敗北・後退が続き、1944年(昭和19年)7月には、南方の重要な軍事基地であるサイパン島が陥落した。
予想に反した、この戦局の状況に東条英機内閣は総辞職に追い込まれた。しかし、これに代わって組閣された小磯国昭内閣のもとでも戦争はなお続行された。
戦局の悪化にもかかわらず政府・軍部は国民に真相を知らせず、ジャーナリズムはしきりに「鬼畜米英撃滅」を叫んで「必勝の信念」を説いたが、国民の体力も戦意も衰えていくのは目に見えていた。
このような国内の状況下、連合国側は1943年(昭和18年)11月、米英中の3国首脳が『カイロ宣言』(後述)を発して、日本との徹底抗戦や日本の植民地を独立、または返還させることなどを明らかにした(後述)。1944年(昭和19年)年末以降、米空軍による本土空襲が本格化した。中でも1945(昭和20)年3月の東京大空襲は、まるで雨を降らすような焼夷弾(火災を起こす爆弾)攻撃で下町のほとんどが焼け尽くされるという悲惨なものとなった。全国の主要都市も、相次ぐ空襲に市街地の殆どは焼け野原となり、住民は逃げ場を失う状態となっていった。そして、同年4月、米軍はとうとう沖縄に上陸し激しい戦闘の末、幾多の悲劇を生み6月には日本軍全滅、沖縄は米軍により占領された。
一方、ヨーロッパでも、1943年(昭和18年)9月、日独伊3同盟国のイタリアが連合国に降伏、1945年(昭和20年)5月にはドイツも降伏、連合国側の全面勝利に帰していた。そんな情勢の中で、鈴木貫太郎内閣は1945年6月、『日本と中立関係にあったソ連』を仲介として和平工作に着手したが、すでに、同年2月、ルーズヴェルト・チャーチル・スターリンの米英ソ3国首脳は密かに『ヤルタ協定』(後述)を結び、ソ連の対日参戦を取り決めていた。1945年(昭和20年)、米英ソ3国首脳は再びポツダムで会談し、7月、米英中3国(後、ソ連も参加)の共同声明として『ポツダム宣言』(後述)を発し、日本へ無条件降伏を勧告した。
しかし、ヤルタ協定の存在を知らず、ソ連を仲介とする和平の実現に期待していた日本政府は、当初これを黙殺する態度を取った。これに対して米国は、同年8月6日広島に、9日には長崎に、開発(開発したのは2個だったといわれている)したばかりの原子爆弾を投下し、一瞬にして市街地を壊滅させ、数10万の一般市民を死亡させた。さらに、8月8日には、ソ連が「日ソ中立条約」を破棄して日本に宣戦、満州・樺太・千島などに侵入を開始した。
日本政府もついに意を決し、天皇の裁断という異例の形をとって軍部など戦争継続論をおさえ、1945年(昭和20年)8月14日、ポツダム宣言受諾を連合国側に通告し、翌8月15日、天皇自身のラジオ放送で国民にこれ−ポツダム宣言受諾を明らかにした。そして、同年9月2日には、東京湾内のアメリカ戦艦ミズリー号艦上で、日本は連合国との間で降伏文書に調印した。
こうして6年にわたって全世界に歴史上空前の惨害をもたらした第2次世界大戦は、枢軸陣営(日独伊の同盟国家)の敗北によって終止符を打った。