これまでも述べてきたように、終戦直後のの国内の動向は、まさに価値観が一変するような激動の連続であったが、とりわけ村民の日々の生活を混乱に陥れたのは、食料難と生活物資不足・インフレ、そして金融の封鎖と新円への切替えであった。
当時、生産は極度に低下し、国民は言葉を絶する窮乏生活に苦しんでいた。昭和20年(1945年)8月の鉱工業生産数量の総合指数は、戦前(1935~37年平均)の僅か8.5%、12月で13.4%、21年(1946年)4月に、なお20.5%というありさま(「朝日年鑑」1947年版)、食料は極度に不足し、成人1日300グラムの僅かな米の配給も途絶えがち、それも米麦の配給はいくらもなく、芋、豆蜀黍(とうもろこし)、ときには大豆の絞り滓さえも混じったものであった。20年の秋の米の収穫は3,915万石(当時の平均作6千万石前後)という空前の大凶作で、翌21年春・夏には食料の最大危機が訪れた。しかも政府は、大資本には軍需産業打ち切りの補償、その他いろいろな名目の補償金や、政府との契約で生産もしていなかった軍需品の代金支払などで莫大な金をばらまいたので、インフレーションは日ごとに悪化し、物価は高騰、実質賃金は戦前の4分の1ないし5分の1までに切り下げられた。その上、戦時生産の解体、兵士の復員、海外からの引揚者で、昭和20年(1945年)末から21年(1946年)の失業者は400万人から500万人にも達した。
農村では主食(米麦)の供出割当を完納しないでヤミのルートで販売する者が現れ、米の価格はうなぎのぼりに高騰した。もっとも農民の過半数は零細経営者でヤミで売るどころか、強制供出で自分達の食べる米にも窮していたのが現状であった。そして、地主による小作地の取り上げがいたるところで行われていた(昭和21年2月、第1次農地改革実施される)。
都市部の民衆・労働者は、空襲で焼け出され廃墟の掘立小屋に住み、過酷な労働と安い賃金に喘ぎ、食糧危機とインフレに責め立てられていた。
当時の弊原内閣は、この食糧対策と悪性インフレ阻止のため、昭和21年(1946年)2月17日、『食糧緊急措置令』と『金融緊急措置令』を発布し、同月25日には「新円への切替」を行った。
政府は食糧緊急措置令により、主食の割当てを完納しない農家に対して、収用令を適用し、差押え・強制買上げを強行することにしたが、そんな強権の発動もあまり効果は上がらなかった。前にも述べたが、昭和20年の凶作はもとより、戦時中からの肥料不足などで地力は衰え、加えて働き手を失うなど農村の生産力の低下は目に見えており、農村自身が食糧不足に喘いでいた。そんな中で一部の裕福な農家は商人と結託し巧妙に摘発のがれをしていたのである。ヤミのルートにのった米価の高騰はインフレに拍車をかけた。
このインフレ対策のため、政府は、物資の生産を高める平和産業の早期復興、そのために資金を調達することをねらいとし、「金融緊急措置令」を発し国民の各種預金を封鎖し併せて同年2月25日にはこれまでの紙幣の「新円への切替え」を実施したのである。
「預金の封鎖」、連動して行った「新円への切替え」は、当面、生産による供給がないのに、いたずらに多い通貨の流通量を、一挙に縮め減らそうとするものであった。簡単にいえば新しい紙幣を発行し、1人につき100円だけ旧紙幣と交換し、その他の、国民の持っている旧紙幣をすべて郵便局や銀行に預金させ、その引出しを1ケ月に世帯主に300円、その他の世帯員1人につき100円以内に制限したのである。その結果、日本銀行券(紙幣)発行高は昭和21年2月16日には600億円をこえていたものが、同年3月2日には152億円と4分の1に激減した。しかし、それで悪性インフレは止まらなかった。たちまち通貨の流通量はもと通り600億をこえてしまった。問題の解決は、根本的に、なんとしても生産力を回復して物資の供給を増加する以外になかったのである。
金融封鎖は、21年2月17日金融緊急措置令施行規則、同月25日新円切替え後の半年余り、同年の8月11日早くも規則は改正され、第1封鎖預金と第2封鎖預金の2段階方式に分けられた。第1封鎖預金は預金の支払い(現金化)はできるが、第2封鎖預金は原則として封鎖支払(金融機関の窓口から直接相手に支払うこと、いわゆる振替)も認められず金融機関に凍結されるものであった。
以下に、昭和21年8月11日改正された「封鎖預金申請」要項を記す(町有資料)。
『封鎖預金申請』
〈申請の目的〉 昭和二十一年八月十一日午前零時に、現にある個人の一口三千円以上の封鎖預金等を第一封鎖預金と第二封鎖預金に区分するために行う。
・記載する封鎖預金は一口三千円以上の預金、貯金、金銭、信託、恩給金庫に対する寄託金、定期積立、無尽掛金およびこれに準ずるもの一口ごとに記載すること。
〈申請者〉 申請者は個人で一口三千円以上の封鎖預金等を持っている者に限る。法人、その他の団体は一切申請の必要がない。
〈申請期間〉 八月十日より九月十日までの一カ月
〈提出先〉 預け先金融機関に提出する。
〈第一封鎖預金など基準限度額〉 人員三名までは一万五千円、四名から八名までの時は人員に四千円を乗じた金額、八月名以上の時は三万二千円である。
〈加算金〉 ①世帯に対する毎月の生活費(一人月額百円)で八月分以前の支払を受けていない金額、②学生または生徒の教育費(世帯を異にする者一人百五十円、世帯の同じ者一人五十円)の支払いを受けていない者、その他。
〈控除金額〉 八月十一日以降、第一封鎖預金設定までに支払われた次の金額、①生活費として現金払いを受けた金額、②結婚費または葬祭費して現金払いを受けた金額、③教育費、④郵便積立金、定期積立保険料、年金の払い込みに封鎖支払を受けた額、⑤家賃・地代その他賃貸料支払いのため封鎖支払を受けた額、⑥学生・生徒の授業料・入学金・定期乗車券購入費・電話料金などの支払いのための封鎖支払い他。
右記のように、第1封鎖預金は人員によって限度が決められ、それ以上の預金は、封鎖支払いもできない「第2封鎖(実際上使えない金)」にまわされた。
また、第1封鎖預金の対象の生活費、婚礼・葬祭費なども金額が限定され、現金を必要としない各種の積立金、家賃、地代金、学生の授業料などは、金融機関の帳簿上で操作される「封鎖支払(現金が手に渡らない)」で処理された。つまり、預金・貯金残高が幾らあっても、定額以上の支払い(現金化)を受けることができなかったのである。
すなわちこの(強制した)預金を産業界へ還流しようとするものであった。
新円への切替え
国民は、昭和21年2月25日以降旧紙幣は使えなくなるため、新円との交換を迫られたが新紙幣の製造が間に合わず、応急措置として旧紙幣に証紙を貼り新円と同様に取り扱わせた。しかし、この措置は多くの混乱を招いた。
以下、当時日本銀行函館支店より尻岸内村役場に送られてきた通達文書である。
(昭和二十一年)九月十二日付大蔵省告示により証紙を貼付したる日本銀行券の通用期間は、来る十月三十一日限りと決定せられたるに付き、同券は右期日までに左記金融機関において新券と引きかえを要することになりました。
もともと前記証紙貼付銀行券は、本年(昭和二十一年)二月新旧切かえ当時、新券の不足を補うため応急的に発行せられたるものにて、爾来証紙の剥落、偽造証紙の出現等により流通上種々の不便を生ずるに至りたる実情にかんがみ、今回これが全面的回収を実施致すことになりたるものにつき…(以下省略)
こうして証紙付きの旧紙幣は10月末日限り無効となり、この通達を知らぬままに、あるいはうっかりして期日が経過し、また、証紙を失ったため新円に交換できなかった人も少なくないと伝えられている。尻岸内村では大澗・古武井の両郵便局で旧円と新円の交換が行われた。このときの交換紙幣は10円・20円・100円・千円の4種類であった。
この通達の内容を見ても、政府のとった金融封鎖・新円への切替え政策が、いかに見通しの持たないせっかちなものであったかが窺がえる。
この金融緊急措置令のねらい、またその成果について、少し理解を深めるため『日本の歴史』中央公論社・1967年・蝋山政道著の関係部分を抜粋し記載することとする。
『日本の歴史二六』より『救国貯蓄運動と金融緊急措置令』(117P~120P)
いま一つ戦後経済の安定復興の要因として、日本国民の伝統的な美徳ともいうべき貯蓄心の発揮があったことが挙げられる。とくに終戦の翌年(昭和二十一年)から始まった「救国貯蓄運動」は、同年二月十七日、前述、政府の「金融緊急措置令」という「強制」を伴うものであったが、しだいに自由預金は増加する傾向をたどった。勿論、自由預金の増加から封鎖預金を差し引いた純資金では、まだ産業資金を賄うにはとうてい足りなかった。その原因は主として、新円階級(戦後の成金)や農家のタンスの中に通貨が手持ち(タンス預金)されてしまったことにあった。預金の奨励があっても、インフレによる通貨価値の下落に不安を感じて、多くの国民の貯蓄心は鈍りがちであった。貯金して目減りするよりモノを買った方がいいという風潮であった。
しかし救国貯蓄運動のかけ声とともにそれはしだいに活発となってきた。昭和二十三年(一九四八年)度の『第二次経済白書』には次のような記述がある。
「昨年度(昭和二十二年度)における一般自由預金の増加は、救国貯蓄運動の本格化に伴ってかなり見るべきものがあり、従来月一〇〇億円未満であったものが、昨年六月以降は一〇〇億円を越し、特に十二月には年末の特殊事情もあって、四二八億円に達した。本年度に入ってからは、徴税の強化、政府支払いの抑制の事情が大きく響いて、その増加の勢いは相当弱まったが、昨年度を通じてみると一、九五〇億円を増加したことになる」
こうしてしだいに増加していく自由預金の全部が産業資金に流入していくわけではなく、そのそうとう部分は流通面に停滞していた。また自由預金の中でも、戦前には五六%あった定期預金が、なお二六%に止どまっていた。これは、日本経済がなおインフレという本質的に貯蓄を困難にするような状況であったことに基因する。しかも皮肉なことに、インフレ抑制には生産資金の増加が必要なのである。このジレンマを切断するものの一つが、国民の貯蓄性向上を利用することにあることを思えば、貯蓄増強運動は国民による救国運動の名に値するといえよう。
この救国貯蓄運動が寄与すべき日本経済の再建復興のために、当時どのような財政投資や産業資金が必要であったのか見ておこう。それまでの荒廃した国土の再建復旧などに投資された資金は、むしろ、インフレ推進の一翼をなしていたが、昭和二十四年(一九四九年)経済復興計画発足の初年度を迎え政府は次のような目標をたてている。
「今ここに復興計画発足の初年度を迎え、九原則の一眼目たる自立経済の達成を目指し、生産増強、輸出振興の基盤を本格的に培養するためには、必要な投資として、石炭の新坑開発、水力発電機の新地点の開発、鉄鋼設備の整備、国鉄の修補強化、港湾の整備、新造船の拡大、治山治水、土地改良、干拓その他農業の投資等を行わねばならない。
しかるに復興計画委員会の第一次集計によれば、各部門の要求をある程度満足せしめるためには、所要資金として土木建設的復旧建設事業だけで五ケ年の計、二兆七千億(二三年補正価格)、産業関係で二兆五千億(設備資金合計)を必要とする結果がえられている。この計画には多少の水増し、重複があるにせよ、傷ついた日本経済を再建するにはいかに莫大な資本支出を必要とするかが明らかとなろう」(昭和二十四年度『経済白書』)
このような莫大な資金需要に対し、それに見合うような急激な増大は期待できないのが実情である。それでも昭和二十四年末には自由預金中定期は三七%に達した。しかし貯蓄力も、根本的には国民経済そのものの安定復興、ならびに国民の生活水準の上昇と因果連関を持っている。問題はむしろ、そうした悪条件のもとで、なお国民による貯蓄が救国作用を営んだ事実を注目すべきであろう。
また、経済復興に寄与したものとして、救国貯蓄運動とともに忘れてならぬものに、昭和二十二年(一九四七年)に行われた証券市場の民主化がある。第九二議会に「証券取引法案」が「日本証券取引所の解散に関する法律案」とともに一括上程され、通過した。それによって株式の集中化を排し、一般大衆の手に解放して、証券投資による貯蓄の機会を広くし、経済復興のための資本の欠乏を補うことにも役だった。
なお、1950年(昭和25年)6月に勃発し53年7月休戦となった3年間にわたる朝鮮戦争の特需が、わが国の戦後の産業復興の大きな要因となったことを付記する。