役場に頼ってばかりはいられないと、食料を求めて殺人的な混雑列車に乗り、遠く農村地帯へと出かけて行った住民の声が現在(いま)に残る。
「函館駅前のコンクリートの上に角巻にくるまって一週間近くも頑張り、ようやく手に入れた汽車のキップで富良野へ行き、昆布やスルメ、衣類などを農家の人に渡し、ようやく青米(未熟米)を一俵分けてもらいました。こうして正月休みもなく買い出しに出掛けましたがその苦労と苦心は大変なものでした。」 (恵山 Sさん)
「古武井の人々は秋田、津軽、旭川、帯広方面へよく出かけたそうです。私は在郷軍人会の責任者であったので買い出しには行かないことで通しましたが、妻は出かけました。おそらくは農家の言いなりで交換したんじゃないですか。」 (古武井 Kさん)
「当時は一ケ月のうち四日位より家にいませんでした。もちろん買い出しに出かけたのです。海産物と交換してくれたのは米、澱粉、小豆などでした。ここぞと思う農家の目当てもなく、ただもう足にまかせて捜し歩きました。駅から二里もの道をとぼとぼ歩いたこともありました。中には何も買えなくて南瓜を買い背負って帰って来たという、笑えない話もあったんです。」 (御崎 Tさん)
こうした、止むにやまれず買い出しに行く人々とは別に、馬車やトラックを使った大がかりな買出団が出没するようになった。尻岸内へも、米、甘藷、林檎、豆類など積み込んだ本州船が夜陰に紛れてやってきて沖懸りし、ヤミ売りしたり、昆布やスルメなどと交換したりした。このような金儲けを目的とした悪質な組織的買出団に対しては、警察当局も食糧管理法(昭和17年2月21日施行)を盾に徹底した取締に臨んだ。しかし、悪質かつ組織的ヤミ取引は止まるところを知らなかった。国は法令を強化(食糧管理法施行規則・同22年12月30日公布、物価統制令・同23年3月3日公布)し、そして、この違反者に対しては「10年以下の懲役又は10万円以下の罰金」という厳しい刑罰が科せられるものになっていったのである。 食糧危機突破運動第1次期間が終わってまもなくの昭和20年12月8日、函館地方検察庁の清水検事正は次のような談話を発表している。
「今後の主要食糧取り締りについては、諸種の行為の代償又は物品の代価として農民に米麦を要求することも供出の阻害となるので、取締の対象となる」と述べており、つまり、農作業の手伝いをするので米を分けてくれとか、スルメと米を交換して欲しいとかいうことも、処罰の対象になるということである。
また、同地検柳瀬検事と北海道新聞記者との買い出し取締についての問答でも、
記者「今日明日の食糧に窮して止むを得ず、親戚知己を頼って少量の食糧買い出しをする。こうした者に対しても一律に厳罰主義で臨むのか」
検事「買い出しをした者全員を処罰するものではない。処罰される者は悪質な違反者だけである。要するに現下の食糧危機を突破するためには(農家の食糧の)供出を阻害する一切の違反者を撲滅しなくてはならない。国民生活を安定させるということが眼目である」
記者「どんな内容を持った買い出しが悪質違反と見なされるのか」
検事「買い出しをすることによって、(農家の)供出物が供給できなくなるというような買い出しは、悪質違反と認めざるを得ない。又、利得するため横流しをして供出を怠る農家や道義を忘れ、愛国心を失った生産者ブローカーはいうまでもなく悪質違反者である」
このような検察当局の方針(基本的には例外を認めない)によって、買い出し取締は強化され駅や主要道路に見張人を配置して、昼夜を問わず監視の目を光らせるという厳重な警戒ぶりとなった。以降、買い出しはその多少を問わず処罰されるという恐怖から、著しく減少したが、これは処罰の対象とはならないはずの一般の人々の数で、悪質ブローカーは以前より巧妙に司直の手を逃れ買い出しを行い、買い占めた食糧等をヤミルートに流し以前より利益を上げた。
その頃の新聞の投書欄に載った「読者の声」を見ると、
援農学徒の声(援農学徒とは、戦時中農家の労働力を補うため組織的に派遣された旧制中等学校・師範学校等の生徒達)
「我々学徒は二年間学業を捨てて増産に汗を流してきた。暗く陰なる農家の空気に浸って、常に清く明るく正しく働いてきた。打算的な同胞愛を持たない冷たい人間に酷使されつつ、一切の不満を抑えて頑張ったのだ。そして収穫期となった。我々の努力の結晶はヤミとなり、横流しとなりつつある。失望と憤怒がむらむらと込み上げてくる。我々の半年の努力が、かかる結果によって報いられようとは…」
消費者Aの声
「窮屈な列車に長時間揺られ、その上べらぼうな金を取られ、衣料品まで巻き上げられ、ようやく手に入れた米をやっこらさっと背負って帰った途端、「ちょっと待て」と警察に取り上げられる。悔しいやら情けないやら…」
消費者Bの声
「食糧営団の人は同情して、少しより取らないよう気遣ってくれたが、巡査は“買い出しはみんな取り上げるんだが半分返してやる、有難く思え”といった。自分の家は八人暮らしだが、米は一〇日間で七升より配給されなかった。一日一人一合にもならぬ量だ。これで買い出しをせずどうして生きていけよう。巡査は配給だけで食っているのだろうか…」
日増しに悪化する食料難に、村民は買い出しとヤミ買いに頼らざるを得なかったのである。この状況を救ってくれたのが、昭和22年頃から実施されたアメリカの好意によって行われた食糧援助であった。カリフォルニア・ビルマ・タイなどからのいわゆる外米・小麦粉の輸入、キューバの砂糖なども、いわゆる放出物資として配給され何とか当面の飢えを凌ぐことができたのである。
食糧事情が大分緩和されたのは、昭和23年(1948年)8月、それまでの欠配分の穴埋めに、輸入小麦粉38日分が1度に配給になった。戦時中を含めてこれだけの配給は初めてであった。大人3人で1袋の小麦粉が配給になるというので、配給所の前はリヤカーや荷車の行列ができたという。店頭に食パンが並んだのもこの時期である。ただし、小麦粉を持参しなければ購入できなかった。
代用食の奨励
逼迫する食糧事情を何とか打破しなければならないと思うのは役所も同じであった。
政府・農商務省は、山菜類1億250万貫の採収を青少年婦人に呼びかけ、採取しやすく栄養価の高い山菜50種類について、採取時期・調理法などを解説したパンフレットを作成、配付するとともに各地で講習会を開催し、採取したもの・処理したものについての買取りも行った。これに呼応し各地では未利用資源の活用研究・製品化に一斉に取り掛かった。山菜の宝庫である郷土尻岸内村も当然取り組んだ。
当時、尻岸内村の人々が採収した山菜は次のようなものであった。
ヨモギ・フキ・ゼンマイ・ワラビ・コゴミ・アカザ・赤白クローバ・ハコベ・ウバユリ・カタクリ・イタドリ・アカシア・柏の葉・ナラの葉・萩の葉・柳の葉・笹の実・ドングリ・トウモロコシの茎・南瓜の茎と葉・ビートの葉・豆類の葉と茎・大根の葉など。
なお、これらの中には処理すると買い取られるものもあった。例えば、大根の葉、山野の草類(ゼンマイ、ワラビなどの山菜類)は湯通し洗浄、乾燥、水分20%以下としたものは特等とし1貫目(3.75キログラム)1円、それに準ずる上等が80銭、並が50銭で買取られたし、木の実は1貫目(3.75キログラム)1円33銭で食糧公団が買い上げた。また、昆布など海藻も山菜同様、貫目1円で買い上げられた。
これら買い上げられた食材は、食糧対策の一環として公団・業者の手で食品に生まれ変わり(パン・団子・餅など)、全国の食糧の配給が遅配している地域に特配となった。なお、ドングリ食用化・粉末は昭和20年、21年にかけて、道庁・北海道森林連合会・粉食協会が提唱者となって行われた。全道の各町村では、秋になると児童生徒にドングリ拾いをさせた。採取したドングリは4斗(45キログラム)34円45銭で買い取られた。21年の尻岸内村割当は32石(1石=10斗)であった。
当時の食生活について村民の声を聞く(尻岸内町史より)
「それはもう、ひどいものでしたよ。米が三分で海藻類が七分でした。まるで米が副食でしたね。何十日に一度かトロトロしたお粥を食べました。その時の味は今でも忘れられないし、今の子供達には到底理解できないでしょうね」 (恵山 吉岡袈裟吉)
「食べられるものは何でも食べたものです。昆布やサルメン、そうそう豆や麦類をカテにしましたね。ヨモギ団子も食べました。ジャガイモの代用食(米代わり)高級でした。米が不足でしたから、穫れた魚で腹いっぱいにしました」 (古武井 川村 留吉)
「海宝麺(海藻をすりつぶしてつくった麺)をよく食べました。贅沢など言っていられないので、手当たり次第何でも食べました。よく体が悪くならなかったと思う。山菜も食べましたが、函館方面からも沢山の人達が採りに来ていたので、ヨモギの葉っぱなど綺麗に取り尽くされていました」 (恵山 笹田謙之烝)
「ダシをとった後の昆布まで、おかゆに入れて食べたけど、美味しいなどというよりはどうしたら満腹になれるかということでしたね」 (日浦 一主婦)
「大抵のものだったら食べました。カマボコ、乾パン、大豆粕も御飯代わりに食べましたけど……。今じゃ贅沢になってしまって……」 (御崎 泉 ヒデ)