〈近代的な新庁舎の建設〉

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 尻岸内村役場庁舎は昭和2年(1927)9月の建築、木造建築(82坪・270平方メートル)の当時としてはモダンな設計であったが、40年に近い年月を経て腐朽破損は甚だしく、既に耐久年数に達していた。しかも、戦後の新憲法による国の立法・施策にともなう地方自治体の行政サービスは、役場の事務機構・組織図にも見られるように、戦前の行政事務執行の時代とは比較にならない広範囲にわたり、役場職員は年々増員、この当時、54人を擁し戦前の3、4倍に膨れ上がっていた。
 そのため事務室は狭隘となり会議室を取り潰し事務室に改造するなど、数度にわたる補修や模様替えをし、建物の構造自体にも無理がかかっていた。しかも会議室が改造されたため役場庁舎内では会議が開けず、200メートルほどはなれた青年研修所で行わなければならず、会議のつど担当職員は説明資料を抱えて往復しなければならなかった。
 しかし、当面の災害復旧事業、六・三制実施に伴う学校設備の充実、漁場回復のための浅海増殖事業・漁港整備促進等々、山積する多くの懸案事項に取り組むだけで精一杯で、新庁舎建設などは考えにも及ばなかった。
 
庁舎建築の動議  ところが、昭和三十六年五月の臨時村議会において、役場庁舎建築についての動議が成田等議員より提出され、審議の結果この会議において確認(賛意)され、昭和三十六年度新庁舎の建設方針を採択、庁舎建築特別積立金四百万円の蓄積を併せて決議した。さらに三十八年度には百万円を蓄積し、ここに庁舎建設に向け本格的に始動した。
 
役場庁舎建築特別委員会  昭和三十八年五月三十日の臨時村議会で、前田村長は工事費・建築様式など基本事項を検討する「庁舎建設特別委員会」の設置を提案・決定し、この特別委員会を構成する議員の互選により委員長に田中甚太郎を選出、早速検討に入った。この委員会の結論として、鉄筋コンクリート二階建て(三〇〇坪程度)とし、設計を西野設計事務所に依頼(昭和三十八年九月設計図が出来上がり)、昭和三十八年・三十九年の両年度にわたる二か年継続事業で行うことを決定した。
 
新庁舎の構想  新庁舎は住民本位の構造でなければならない。と同時に総合庁舎として行政事務の効率化を図る近代的施設設備を完備しなければならない。このための、①環境を含めて相当の広さを確保する。②鉄筋コンクリートを本体とした耐久性と暖房・防暑・防湿・給排水など北方建築に相応しい近代様式とし、併せて外観上の美観も保つ。③室内は住民の応対・窓口業務と事務能率の向上を主眼とし、事務機の導入、将来の職員増員と機能の拡大も考慮に入れる。④敷地内は人と車の交通を円滑にし、駐車場・花壇・防火水槽・花壇・国旗掲揚塔・街灯など調和の取れた環境とする。
 
役場位置の変更  役場位置については新庁舎の構想に基づき、昭和三十八年十月の臨時村議会に前田村長の提案された位置が慎重に検討され、村有地であり敷地も充分である。古武井小グラウンドとして使用されていたので整地費を必要としない。地理的に村の中央に位置していることなど、必要要件を全て満たしていることから満場一致の決定をみた。
 
工事の発注  昭和三十九年二月十七日関係業者と役場庁舎と関連諸工事契約を締結する。
・躯体工事   二三、九六〇千円(函館市大森町 千葉建設 千葉正治)
・暖房給水工事  五、八三〇千円(函館市若松町 三次屋工作所 吉井与四郎)
・電気電話工事  二、三五〇千円(函館市梁川町 鶴谷電建株式会社)
  合 計   三二、一四〇千円(その後、ロッカー・放送室二八万円の費用を追加、電話工事は函館電話局に発注する)
工事の完成  昭和39年(1964)9月30日