・昭和6年(1931)の冷害 この年の凶作は、大正2年の大凶作と共に北海道の農業史上に残る酷い年であった。この年は1、2月から気温が平年より2度前後も低く、3月に入りやや上昇したものの4月には再び低下、霙(みぞれ)や雨の日が多く雪解けが遅れ、そのため蒔付けも遅くなり、追討ちをかけるように播種期の5月も低温と日照不足、発芽・成育共に不良早くも凶作の兆しが見えていた。6月に入り天候はやや回復したものの下旬からは再び気温が下がり最も大切な8月になっても上昇せず、特に下旬は異常低温続きで、農作物に壊滅的な被害を及ぼした。
・昭和7年(1932)の天候不順 この年は、前の年とはうって変わり1月が暖冬、3月も季節外れの高温が続き、4、5月は平年並みの気温であったが、5月中旬から全く雨が降らず日照りの日が続き夏の作物は大きな痛手を被った。ところが7月下旬に入ると天候は一変して連日の曇り空、日照不足により作况は遅れ、さらに8月末から9月にかけて数度の豪雨に見舞われ、馬鈴薯などの主要作物が五分作止まりに終わった。
・昭和9年(1934)の低温 この年は、積雪量が極端に多く気温は上がったが雪解けが遅れた。そのため播種期がずれ、遅れを取り戻さなければならない7月始めから天候はぐずつき、晴天の日でも夜間の気温が極端に下がるなど日較差が激しく、7月中旬から8月上旬までの平均気温は大凶作の大正2年よりもさらに低く、生産量・額とも多い重要作物である大豆・小豆は五分作を下回る被害を被った。
・昭和10年(1935)の長雨低温 積雪量が少なく3月、4月も比較的好天に恵まれ順調に蒔付け作業を終え、久々の豊作を願った年であったが、5月に入ってから雨の日が多く日照不足と低温に悩まされた。6月中旬になると内地並みに梅雨現象が現れ太陽が顔を見せず、7月上旬一時回復したものの中旬過ぎから再び雨続き、8月は連日の曇天、9月に入り晴れの日が多くなったものの気温は依然として低く、この年もすべての農作物が6分作程度の作柄となった。
馬鈴薯や大豆・小豆など寒さに強いはずの作物でさえこの状態である。もともと熱帯の植物である稲作となれば更に劣悪な状況であったことは間違いない。当時の稲の品種や栽培法が、北海道の過酷な自然条件を未だ克服するに至っていなかったろうし、ましてや我が郷土では稲作の歴史もなく試行錯誤の試験田であったわけである。昭和4年(1929)5町1反歩の耕作に始まった稲作は昭和11年(1936)には何とか6町1反歩にまで広げたものの、前述のように天候の不順・凶作に見舞われ、翌12年からは減反となり昭和15年(1940)には全く廃業するに至った。そして、この造田事業が再び脚光を浴びるのが、わが国の経済が急激に伸びてきた昭和30年代後半からである。このことについては後述する。
なお、この数年の天候不順の期間にあって、昭和8年だけは別格であった。好天に恵まれ農業は大豊作となり、また、漁業も豊漁で村は賑わった。この年、昭和8年度の農業・漁業についての『資料尻岸内村勢要覧、昭和九年(一九三四)』が現存するので、その概略を記載することとする。