戦時体制下の農業

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 昭和13年(1938)、政府は中国大陸での局地的戦争の長期化に対処するため「国家総動員法」を公布した。これにより、人的(兵隊)・物質的資源を国防(戦争)目的のため統制運用する権限を広範囲に得た政府は、昭和16年(1941)12月8日アメリカ合衆国に宣戦布告し、太平洋戦争(第2次世界大戦)に突入した。
 政府は、この「国家総動員法」に基づき、農業に関しては、非常事態に備えての食料確保を目的とし政令「農地作付統制(とうせい)令・臨時農地等管理令・小作料統制令・米穀搗精等制限令・物価統制令等」を発し、農業すべてに亘り管理統制を計った。昭和15年4月には、これら諸法令に従い「尻岸内村農地委員会」が設置・組織され、戦時下の農業総合計画の樹立と実施、農業関係機関の連絡統制などの職務を執行することとなった。
 この期間、産業振興5か年計画の取組みが功を奏してか、農業生産高は確実に伸びてきていた。天候にも恵まれた昭和16・17年は馬鈴薯等主要生産物が史上最高の大豊作となり、低温に見舞われた19年でさえ平年作を僅かながら上回るなど、その栽培技術にも進歩の跡が窺えた。しかし、開戦とともに主食の米は配給制になり、それも遅配が相次ぎ、水田を持たないわが郷土は、米に変わる食料の確保に真剣に取組まなければならなかった。働き盛りの男は兵隊にとられ、年寄り、女、子供らの手で、平地という平地は勿論、雑木林までも伐(き)り拓(ひら)き馬鈴薯や南瓜、麦、大豆、玉蜀黍(とうもろこし)などを植え付けなければならなかった。そして、戦争の激化にともないこれらの農産物も(政令により)国に供出する命令が下った。この供出割当ては国から道庁、支庁、町村別に割り当てられ、それを受けた村当局は「尻岸内村農地委員会」・関係団体・各部落会長と協議し、作付け面積に照らし個人別割当を決定した。割当ては国の命令であり、絶対的なものである、例え不作であっても自家用を削り供出しなければ非国民呼ばわりされ、官憲の目が光った。
 戦況が最も激しくなった昭和19年の供出記録によれば、麦類・玉蜀黍(とうもろこし)・稗・豆類の生産物は勿論、加工品の澱粉、野菜類の大根・人参・南瓜に至るまで、農産物・加工物すべてが供出物の対象となっていた。なお、この年は先にも述べたが平年作程度の作柄であったが、前年の16~18年と豊作が続いたため、これらを基準とした供出割当率が高く、生産量のほぼすべてを供出しなければならなかった。
 戦時下の村人達(その多くは年寄・女子供)は、身を粉にして働き実った作物のほとんどは供出し、僅かに残ったくずイモやうらなりカボチャ、山菜、海草果ては澱粉や大豆の絞り滓などまで食し飢えを凌ぎながらも、戦争に勝つことを願い、「御国の為」と生産に励んだのである。