(4)経済不況と漁民の苦境

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 金融恐慌 昭和2年3月14日、大蔵大臣の不用意な議会答弁に端を発した金融恐慌では、東京周辺の中小の銀行の休業、企業の倒産が続出するという、未曾有の不況に見舞われた。銀行は金融引き締めを強化、北海道拓殖銀行は漁業者に対する融資を大正13年以降徐々に減らしていたが、さらに強化、昭和5年には大正13年の3割にまで減じ、翌6年には前年貸付実績の半分にまで減らしてしまった。ただでさえ不況に喘いでいた漁民にとって出漁の準備資金が間に合わず大打撃であった。
 北海道水産会は昭和3年から、不漁地帯への漁業資金特別融資を道庁長官に請願陳情を続けた。不況が深まるにつれ漁業者への銀行融資はいよいよ窮屈になり、いきおい利子が最も高い仕込金融へ依存しなければならない結果となっていった。
 

「昭和10年の漁業金融」

 *頼母子講 無尽講の一種、一定の期日に組合員が一定の掛金し、入札によって所定の金額を渡し全部に渡し終えた後、組合を解散する組織
 
魚価の低迷 このような不況のあらしは魚価にも著しい影響を及ぼした。
 次の数表は魚価の指数で、大正15年度を100とした、昭和2年度から11年度(3年と8年を省く)までの各年度の指数を表したものである。

「魚価指数(大正15年を100とする)」

 この指数表を見れば、大正15年(昭和元年)、仮に100円の値がついた魚が、昭和2年(金融恐慌が起こった年)には80円で取引され、6年には半値を切る49円にまで下落、11年ようやく元の値に戻ったということになる。藻類・昆布については魚類以下の酷い数値である。9年には38円、11年になっても70円に回復したに過ぎない。また、魚粕については昆布よりなお悪く、当時、何カ統もイワシ網が立てられ鰛粕の生産高も大きかっただけに経済的打撃は計り知れなかった。
 
尻岸内村の漁民 このような経済恐慌の漁家経済は貧窮のどん底へ突き落とされた感があった。借金は増える一方、最も不景気だった昭和6年には1戸平均698円となり、これは漁獲金851円の80パーセントを占める金額であった。この借金も返済期限を過ぎたものが63%、返済できなかったものが65%もあるという悲惨なものであった。
 以下、大正13年から昭和3年までの尻岸内村水産額(漁獲生産額)である。

尻岸内村水産額(主な産物)・大正13から昭和3年まで」

 この時代、郷土は金融恐慌の打撃を受けると同時に、自然災害・凶漁に次ぐ凶漁に見舞われた。すなわち昭和3年のイカ・イワシの不漁、加えて昭和4年の北海道駒ケ岳の噴火によるコンブ礁の荒廃、同5年には、又、イカの不漁と昆布の凶漁、イワシは豊漁に恵まれたものの先にも記したが鰛粕が半値に暴落、収支が損なわれ悲惨な有様となった。