北海道林業会報、第8巻、100号に、『古武井鉱山煙害所見』と題したレポートが載っている。これは、寒山子(ペンネーム)を名乗る人が、明治42年(1909)に古武井硫黄鉱山を視察し書いたものである。
鉱夫の数六百余名、消費木材十五万尺、硫黄の産額三十七万円とあって、実に盛んなりと云うてよいが、しかし、また鉱業の盛大であるだけ、それだけ付近の森林の頽敗は、また著しく、精錬所一帯は勿論、煙の行くところ樹木鮮苔は悉く枯死し、樹根は露出し、土砂は崩壊し、特に造林せる数万本の落葉松も殆ど毒煙のために、その跡を止めざるに到っては実に惨と云わなければならない状態である。
最も被害の著しいのは、精錬所の周囲四百米の区域で樹木草本は勿論、笹、鮮苔の類に至るまで悉く枯死し、表土は結合力を失い樹根は露出し、傾斜三〇度以上の場所は、土砂崩壊し岩角を現し、ただ四百米の外縁に近くカヤは点々叢生するを見るのみで、所謂地獄の世界は斯くかと思わるる程である。
更に精錬所から遠ざかり四百米乃至八百米の区域に入ると、稍人間世界の様で緑の植物もある。即この区域の内縁に近くカヤは叢生し、中央部以外にはススダケ・クマザサが生育しあるけれども、単に生活を維持するに止まり、茎、葉は著しく毒煙のため矮小となり高さも一尺二、三寸に過ぎない。
而してこの区域の外縁に近く、三尺内外のセンノキ、ホオノキの稚樹を見るけれども、これも著しく毒煙に犯され葉はその縁辺赤褐色を呈し、殆ど成木の見込みはない。
また、精錬所から四百米許りある河畔の低地に、ツルウメモドキの一群はあるけれども、生育悪しく葉は著しく奇形を呈し、僅かに生命を保持しているのみである。
明治42年といえば、硫黄の生産は国策として隆盛を極めていた時期である。函館税関管内においては、硫黄は数少ない輸出品として水産物に次ぐ第2位の地位を占め、外貨獲得に大いに貢献していたのである。北海道林業会報という業界紙への投稿であり、林業を守る立場とは言え、レポートは硫黄鉱山の鉱害による自然破壊をズバリ指摘している。このことは、当時の社会情勢から見れば相当勇気のいることであろう。
古武井鉱山の最盛期には焼取釜90基といわれている。焼取釜1基に要する薪(まき)1日1敷2分5厘、1敷とは2尺2寸の長さの薪を高さ5尺、長さ10尺に積み重ねた量(66×150×300センチメートル)、古武井の最盛期、単純計算で1日、112敷5分、年間4万1千敷を超す薪を必要としたわけである。幅66センチメートルで高さ1.5メートル延々123キロメートル続く薪材の山が1年で煙となって行くわけである。、更には坑木、枕木を初め倉庫、事務所、飯場、家屋等に要する木材、それが10有余年間続いてきたわけである。想像を絶するほどの樹木が伐採され、古武井川、尻岸内川流域から鬱蒼とした原始林が消えて行った。山の急斜面の土砂を支えていた樹木も切り倒されていった。その結果山は大雨の度に崩落した。
貪欲に樹木を飲み込んだ焼取釜は、莫大な富を産むことは確かであったが、同時に、毒性を含んだ煙を吐き、太陽を遮り、植生を阻み、動物のねぐらを奪い、川を汚し、魚たちは姿を消していった。そして、海も青さを失っていった。
道は、漁民たちの声や、その現実から目をそらす訳にはいかなくなり、大正元年(1912)、北海道立中央水産研究所の半田芳男技師に、古武井鉱山の調査を命じた。以下、その復命書である。私見を挟まないためにも、できるだけ原文に近い形で記述する。なお、この復命書に関係ある調査以降の必要事柄について、いくつか付記(囲み記事)する。