前期幕領時代(寛政11年・1799~文化14年・1817)の、会所や旅宿・通行屋で働く人足の人夫賃は最初、『一日米、五合から一升』と定められていた。当時の職務は、馬引き・船漕ぎ・荷物や書状の運搬が主なもので、職務の軽重により日当に差をつけたと思われる。
享和3年(1803)には、この人夫賃の基準は『一里に付、人足一人銭二〇文・馬一頭銭四〇文、難所や山道は人夫賃二割増とする。(箱館奉行所官吏および在住の諸藩の士卒はこの半額、諸藩の持場内は無償)』と定められた。人夫賃が、距離と山道などの条件が基準となり、支払いも米から銭に代わり、合理的にはなってきたが、『新北海道史第2巻』には、「箱館村二十四ケ村も人馬賃金は同様であったが、村が困窮なので文化五年(1808)八月から同九年(1812)四月までの四ケ年間、一人に付人足は銭六文、馬は銭一〇文の増銭を願出、許可、文化八年八月からは、さらに四ケ年間の増銭継続が許された。しかし、人夫として徴発される各村の働き手が少ないうえに、春秋の漁期と幕吏らの往来が重なるため、村人はかなりの負担を強いられた」と記載されている。