明治3年(1870年)7月、東本願寺大谷派の信徒らは当時19歳の法嗣・現如上人大谷光螢に率いられ、本願寺道路の建設に着手した。
未開の北海道内陸に新しい道を切り開くことは大変な難工事である。また、この工事に要する膨大な資金を短期間に調達することは、なお一層の難事である。これを打開するため、東本願寺は19歳の若い現如新門主(法嗣)を総責任者とし、明治3年2月京都本山を出発、一行が通過する東海・東山・北陸・奥羽の東本願寺門徒に寄付を依頼した。さらに、京都から引率してきた僧俗100数10名に加え、仙台支藩の武士や多くの門徒らに工事への協力(労力)を呼び掛け参加を得て渡道、「本願寺道路」の建設に着手した。
建設した主な道路は、新道開削・旧街道改修、次の4本である。
①軍川(七飯町字軍川)~留ノ湯~相泊~彦澗~砂原
(新道……18キロメートル)
②市渡(大野町)~鶉~蛾虫~厚沢部~田沢~江差
・ 江差街道(改修……76キロメートル)
③山鼻~発垂別(札幌市南区発足駅)
(新道……6キロメートル)
④平岸~中山峠~京極~喜茂別~留寿都~伊達
・有珠新道(新道…103キロメートル)
この工事は1年余りで、明治4年7月に完成している。なお、工事費等の概要は次の通りである。
〈工事人数〉 延べ55,000人余
〈直接経費〉 18,057両(8億1,200万円)
〈総経費〉 450,000両(12億4,400万円)
以上、函館大谷高等学校宗教部『調査報告』・昭和56年(1981)7月を参考とする。