海軍務局御中(開拓使にも同文書提出)
(明治五年)二月三十日(旧暦)、午後九時六分、金華山沖を無事通過、このまま航海すれば南部の尻屋崎沖は夜中に通過することになる。そこで(昼間通過したいので)鍬ケ崎(宮古)にしばらくの間碇泊し、時間を見計らって出港すればよいと判断し三月一日十二時五分、鍬ケ崎に入港する。ここにおよそ六時間碇泊、午後六時に鍬ケ崎を出港する。波は静かであったが、海霧がだんだん濃くなってきたので、一同心配し船の航行には十分の注意を払い、速度も一時間に八里半から九里に定め、四時間で約四一、二里の進行とする。六時三〇分、進路を北北東にとり、午後八時から北に向け、十二時五十分から北北西に進行する。
翌、二日、午前八時四十一分、海霧が一時晴れ、晴れ間から遥かに山が見えてきたので、尻屋崎と判断し速度を落とす。丁度、付近を漁船が通りかかったので、問い合わせたところ、「南部の尻屋崎である」との答えが返ってきた。
尻屋崎との位置が定められたので、ここから、北微東に針路をとり、二〇分航行し、午前九時三十分より北に三十分航行し、午前十時から北西微西に針路を転じれば、午後一時前には、蝦夷地(北海道)の汐首岬沖二、三里の位置にさしかかるものと計算していた。
ところが海霧は益々深くなり、船上の人の顔さえ見分けがたいほどの濃霧となった。
幹部一同の心痛は甚だしく、できるだけ速度を落とし慎重に航行したが、速度が遅過ぎるためか東流する激しい潮流に船体は押し流される。
この状況から「船は室蘭に向かって流されているのではないか…」「いや、むしろ、その方が安全なのではないか…」などと、一同協議しつつ注意を払っていたところ、十二時五分、船底の方に異常な音がしたので、機関を急停止させ後進を命じたが、加速の付いている船体は急に止まらず、暗礁に乗り上げてしまう。後で分かったことだが、位置は蝦夷地メノコナイ海岸(尻岸内村メノコナイ)であった。
この座礁で、船底には穴が開き激しく浸水し、船客は恐怖に怯え騒然となる。
そこで、直ちに積み荷を甲板に上げ、船底の穴を塞ぎ海水の浸入を止め、機関をかけ後進を試みたが、波が高く、船体の動揺が激しく船底は益々破損したため、傾きが激しくなり、やむなく本船の放棄を決断する。
まず、乗客を避難させるため、尻岸内村に応援を求め、本船に搭載している五艘の短艇と、応援の漁船で乗客全員を上陸させる。次に、積み荷の陸揚げにかかったが、浸水が甚だしく如何ともし難く、やむをえずその殆どを放棄する。
午後五時頃、船体は半ば海中に没し乗組員一同上陸する。
誠に恐縮に存じ、この顛末有りのまま申し上げます。
明治五年(一八七二)三月
東京丸船長(海軍大尉)瀧山正門
恵山町ふるさと民話(第1集H2.6)より