1830年イギリスが近代郵便の制度を始めてから30年、わが国は明治の世となっていたが、郵便は相変わらず民間の飛脚業者により営まれていた。これを監督していたのが民部省に所属する「駅逓司(えきていし)」であった。駅逓司は通信と交通運輸を取扱う役所である。
明治3年(1870年)前島密が駅逓司の長官になると、この飛脚制度の改革を企てた。書状の送達を国家が扱い料金は切手により前納とする。これを「新式郵便」と名付けた。そして、まず、東京−京都−大阪の間に施行する。送達は、飛脚による継走とする。経費も綿密に計算され、各地当ての料金も算出された。この前島案は政府に直ちに採用され、翌4年1月24日(1871・1・14)公布された。(なお、前島は一旦、駅逓司の長官の任を解かれ紙幣制度視察のためヨーロッパに派遣されたが、明治4年8月帰国後は長く駅逓の責任者として郵便事業に尽した)
明治4年3月1日(1871・4・20)新式郵便開業。書状集箱(郵便ポスト)を各地に設置する。4種類の切手(竜切手)を発行する。郵便役所(現在の中央郵便局)を東京・京都・大阪に設置する。東海道の各駅に継立場(後の郵便取扱所)を設け脚夫を配置する等、制度は迅速に整っていった。なお、この時取扱ったのは書状のみであった。
明治4年7月から、東京・横浜間に直通の郵便路線が開かれた。後この路線で「金子入書状」(現金書留)の取扱いが始められた。明治4年12月5日(1872・1・14)には、郵便路線は長崎まで達した。明治5年7月1日(1872・8・4)創業から1年4ケ月で全国にわたる郵便網が完成したわけである。この年の10月には東京・横浜間に鉄道が開通し郵便物が鉄道によって運ばれるようになった。
郵便は全国に行き渡ったが、一方、旧来の民営、飛脚屋も営業を続け、料金も政府と同等に引下げ対抗の姿勢を示したが、明治6年(1873)3月、政府は「信書の逓送は政府の専掌とする」との布告をし、民間の営業を禁止、郵便事業は国家の独占と定めた。
明治6年(1873)の4月から、「郵便料金の全国均一制」が実施され、ここにおいて日本の現代郵便制度が確立されたのである。