前島密の創案による近代的な日本の郵便制度が、明治4年(1871)東海道沿いに開始された翌年、明治5年(1872年)7月、早くも『函館郵便役所』が開設された。
政府はこの同じ年の明治5年、東北地方に郵便役所を96局開設、それに連絡し函館・東京間に毎月9往復の船便を予定、同年10月には函館を基点に①東回りで函館−室蘭を経て札幌へ、札幌から小樽までの路線と、同じく函館から②西回りで福山(松前)−江差−後志国久遠(現檜山管内せたな町)までの2つの路線が開設された。これらの要所には郵便役所が設けられ、①の函館−札幌−小樽間は毎月6往復、②の函館−久遠間には毎月3往復の郵便が取扱われ、函館を起点とする道内郵便網の基礎部分ができあがった。
当初、多くの「郵便役所」は、幕末から設備・制度の整っていた「駅逓」に併置した。そして、駅逓の従業者−駅逓人足・駅馬が郵便取扱役を兼ね、郵便物の逓送を行った。この新郵便制度(全国どこでも一定料金で公私の別なく通信できる洋式の通信制度)が、未開の地、北海道で認知され一本立ちできるまでは、駅逓の組織・機能を借りなければならなかった。ただ、駅逓の変遷から見れば、松前藩・幕政時代、その業務は官用を主体とし会所(役人の詰所)が置かれ、民間人の駅逓業者が経営するという、いわば半官半民の経営体であった。明治維新の改革で一般に開放されたが、開拓使は明治2年から公文書送達のための「駅路逓伝の法」を定め駅逓夫による逓送を行っていたし、業務が繁雑になるに従い、駅逓の「宿泊・運送・通信」の諸機能が独立していく過程にあったとも言えよう。
この時代、駅逓にとっては官用の郵便業務は大きな収入源であり、また政府にとっても施設と駅逓夫・駅馬の存在は、未開地の広い北海道で郵便事業を遂行する上に欠くことのできない条件であった。
北海道の郵便網は駅逓を利用して本州に優るとも劣らない速さで広がり、明治7年(1874)森から長万部・岩内を経由して小樽までの路線が開設、明治8年(1875)苫小牧より浦河を経て根室にいたる路線、銭函から沿岸沿いに留萌を経由して苫前までの路線開設、この年1月、制度改正で郵便役所は郵便局と改称される。そして、郵便路線は道北、道東へと広がる。明治9年(1876)苫前から宗谷へ、宗谷からオホーツク海岸を下り紋別まで、紋別からさらに網走、斜里を経て根室国厚別までの路線が開設され、これが浦河・根室へとつながり、ここに北海道1周路線が完成した。明治5年(1872)7月、北海道初めての函館郵便役所が開設されてから、僅か5年たらずの間にである。
このようにして、北海道の郵便局の数は明治12年(1879)末には85局を数えるまで至ったが、これはあくまでも形の上での充実に過ぎず周囲に人家もなく、幹線道路の中継点に存在する辺鄙な駅逓にも併置されなど、殆ど利用されない局も相当数あった。