教育に関する統計は、小学校数及び教員数・教育費負担額調・学事統計・教員俸給調について記されている。この内から幾つか記すこととする。
<学童統計 その1> 就学状況
この表によれば、就学すべき児童のほぼ全員(未就学児童については、相当の理由により就学免除となった)がそれぞれの小学校へ通っていたということになる。
この時代、義務教育に対する理解−学年令に達した子供は就学させなければならないということが徹底したと思われる。又経済的な余裕から児童を主たる労働力として頼らなくてもよくなった、さらに、教育、とりわけ学校教育の重要性が認識されつつあった、などが推察される。いずれにしても、この数字から、大正期の学校教育の充実が窺える。
以下に、同沿革誌・累年統計から大正4~11年までの各学校の児童数・学級数・教員数について記す。
<各小学校児童数・学級数及び教員数>
大正期の学校建築について
日浦尋常小学校 日浦小は大正2年4月9日2学級編成の認可となったが、1教室のため二部授業をしなければならなかった。これは(例えば)午前中は1・2・3年の学級が学習し午後は4・5・6年の学級が指導を受けるという授業形態で、児童の学習時間や生活時間帯からも正常な学校経営といえるものではなかった。この当時、村内の全校で二部授業を行っていたが、日浦小の場合は教師1人ですべての仕事もこなさなければならず、大変な苦労であった。当時の砂山武俊村長は、この実態を憂慮し支庁に校舎増築の補助を願い出たが実現の見通しが立たず、後任の福士村長に次のように引継いでいる。
一、日浦小学校増築ニ関スル件
是ハ前年度ヨリ繰延ベ事業ニシテ、本年度予算ニ計上セシモ急施ヲ要スルモノニ無之、且ツ其筋ヨリノ来意モアリ、相当時機マデ延期スルコトトシアリ、尚熟考ノ上ノ相当取計ハレタシ。
(大正五年九月二十四日 引継文書)
しかし、1学級の増築が実現したのは3年後の大正8年5月26日、25坪の増築工事が竣工し教師も1名増員され、ようやく二部授業も解消された。
尻岸内尋常小学校 4校中児童数の一番多かった尻岸内小は、常に1学級当たり50名を超す「すし詰め教室」状態であったが校舎増築は見通しがたたず、学校はせめて屋外の教育環境を整えようと地域住民の協力を要請、大正4年、部落総出で校地の砂山を整地し屋外運動場を造成した。児童はさらに急増し大正6年には1学級増の5学級編成となったが、村は財政難のため裁縫室と廊下を併せて仮教室をつくり急場をしのいだ。
翌7年、さらに学級が1増となる。当時の福士村長は次のように記している。
…右ハ本年度ニ於テ一教室増築ノ見込ミヲ以テ予算ニ計上シアリ、而シテ同校ハ収容児童多数ナルガ為メ教室ノ狭隘ヲ感ジ、目下授業二組(二部授業)ヲ実施シアリ、如上ノ現況ナルガ為メ、校舎増築ノ儀ハ急速ヲ要スル次第ニ付キ……
この1教室を増築する計画も、当時高等科の併置を考慮した校舎改築の計画があり、延期せざるをえなかった。しかし、教室の児童収容スペースも校舎の老朽化も限界にきており、村会は、村・地域住民の強い要望を聞き入れ、大正12年には校舎新築の件を議題とし、真剣に議論し翌13年度ようやく予算化の運びとなった。敷地は字浜中2番地2(現中浜79番地)と決まり、工事監督者に尻岸内部長の浜田伊三郎が就任、同年、工事に着手、大正13年6月、校舎226坪(746平方メートル)と教員住宅3棟5戸の竣工をみた。
そして、大正14年(1925)4月、根田内小学校とともに高等科2年を併置した。
古武井尋常小学校 古武井小の根田内小からの分離独立については先に述べたが、当時は2学級編成での開校で、その後、児童数が急増、特に鉱山関係者の児童の就学のため、明治37年には鉱山経営者の助成を受け、鉱山区に中小屋特別教授場・元山特別教授場の分校を開設(この特別教授場は鉱山閉山により大正6年3月・10月それぞれ廃止となる)しこれに対応したが、児童の増加は次に記すように、さらに増加傾向を見せていた。
[表]
このような児童数の増加の実態に、特別教授場の方はともかく、本校の古武井小は二部授業の実施で急場を凌いできたが既に限界に達していた。大正元年亀谷供次郎村長は、この実情を道に訴え北海道長官はこれを認め教室の増築が決定した。なお、以下の町有文書から、この認可については当時の鉱業・硫黄は「国策」とも見なされ、道庁でも便宜を図ったのではないかと推察する。大正2年4月の町有文書に次のように記されている。
一、古武井小学校増築ノ件
本件ハ、大正二年度ノ事業トシテ長官ノ認可ヲ経、又税金ノ準備整ヒタル(補助金が決定したのか?)ヲ以テ、指名入札ノ法ニ依リ、特別請負人ヲ定メ材料ヲ蒐集セシメ、可成(なるべく)五月初旬中ニ竣功セシ見込ミナリ。
(大正二年四月)
古武井小学校(本校)は予定通り、この年2教室増築となり3学級編成となった。
大正5年には古武井小学校に宮内省より御真影が下賜され、奉置所(奉安殿)の建設をすることになったが、この費用に鉱山経営者から応分の寄付金が寄せられ、大正5年11月、管内でも有数の石造りの立派な建物が竣工した。併せて、グラウンド拡張のための民有地買収費についても大島菊四郎他17名の特別寄付があり教育環境は著しく整った。
根田内尋常小学校 根田内小の校舎状況も他の3校同様「すし詰教室」であり、しかも教室不足の状態が長く続いていた。尻岸内町史には「福士村長はこの予算を付けることができず、やむをえず有志と謀り校舎の模様替え行なって4学級とした」とあるが、応急対策として、村長自ら部落の有志を集い材料などを調達し、ボランティア活動として校舎改修を行ったと思われる。しかし、なお、2学級が二部授業を行わなければならなかった。 大正8年8月着任した藤原覚因村長は着任早々校舎問題に奔走したが、在任期間(2年半)中には解決できず転任に際し校舎増築に一段の努力を要請する旨、引継ぎをしている。
一、学校増築及教員ハ位置等ニ関スル件
根田内小学校ノ就学児童ノ増加ニ伴イ、校舎狭隘ニシテ教授上非常ノ支障ヲ来シ、大正十年度ニ於ル校舎模様替及教員事務室ノ増築ヲ行ヒ、一教室ヲ増加シ訓導ヲ一名任用シテ二部授業ヲ廃止センコトヲ乞ウ。
(大正十年二月二十二日引継文書)
根田内小の校舎増築に関しての経緯については、大正14年4月、根田内小の高等科に古武井小の高等科を併置した時の武石胤介村長の文書の中で、前段に、大正12年度に教室を増築をしたことが窺える記述がある。以下にその文書を記す。
一、教育上において多年の懸案たる校舎改築は略略竣功したるも、年々児童の増加著しく且つ又本年度より高等科を設置したる為め狭隘を告げ、尻岸内、根田内の両校には教室の増築と教員住宅の設置とを要し、猶両校の内容においては該校教材と理科器械の設置の必要あり、是等は明年度(大正十四年度)着々購入の計画を樹て充実せしめられたし。
(大正十四年十月二十五日付文書)
教育環境の整備について、村長・役場の努力はもちろんであるが、この時代、地域住民の協力なくしては学校経営は成り立たなかった。日浦小では校地提供や整地、尻岸内小ではグラウンドの造成、古武井小では奉置所や校地拡張、根田内小は品田政治から奉置所建設の為の土地の提供などなど、寄付、労力奉仕等住民の協力は枚挙に暇はない。
特に、この時代の根田内小の住民の手による給水施設の実現は、特筆に値する。恵山の山麓の段丘に立地している根田内小は、水利の便が悪く、教師も児童も沢地まで水を汲みに行かなければならなかった。大正2年、梅津吉蔵、塩内国造ら部落の有志らは、水道施設を設置するための寄付を地域住民に呼び掛け目標額260円を達成し、多年の悩みとされた給水施設を実現したのである。部落民の多くが労力奉仕したことはいうまでもない。
〈大正期の村教育予算〉
大正期、増え続ける就学児童に追いつかない教室の増築、さらには老朽化してきた校舎改築の予算獲得の大変さなどについて述べてきたが、ここで当時の教育予算をみてみる。
この村教育予算によれば、大正2年から11年までの教育予算は「村予算」の50パーセントを超えており、さらに同7、8年には70パーセント超と極端な突出ぶりである。
教室増築は緊急且つ重要課題だったにしろ、この教育費の割合をみれば、相当、頭の痛い事業であったろう。先にも屢々述べたが校舎の改築や教室の増築の予算を捻出することが如何に大変であったか(これは道庁も同じであろう)理解できる。ただ、この時代、明治34年から大正7年まで操業した古武井硫黄鉱山の経営者(34~45年山縣・押野、44年~閉山三井鉱山)から相当の寄付金・建物等の提供があり、教育予算のピンチが何度か救われた。古武井鉱山閉山に際しても、以下に記すように相当の金額を寄贈している。
[表]
大正6年の教育基本財産(寄贈)から
大正六年十一月十四日
三井古武井鉱山鉱業代理人(主事心得) 徳嶋知足
尻岸内村長 福士賢次郎殿
教育基金寄附之件
拝啓 今般都合に依り弊山事業全部廃止致す事に相成候に就ては貴村に対し長らくの間ご厄介に相成りたる御厚誼に酬ゆる為、弊社社長三井元之助の名儀を以て、先の金額を貴村教育基本金の内へ寄贈致度候条、御受納被成下度拙者代理人として御願出候
謹 言
一金 五百円也 但 尻岸内村教育基本金の内へ寄贈
右
なお、この寄付金は、大正8年の日浦小学校の長年の懸案事項であった1学級増の改築工事費用の一部として支出されている。