(2)キリスト教の弾圧

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 キリスト教の禁止については、1854(安政元)年の和親条約神奈川条約)による箱館・下田2港の開港以降もご禁制であったが、開港後、フランス人による長崎の大浦天主堂建設を機会に、この地方を中心に切支丹信徒はその信仰を公然と表した。しかし、政治上・軍事上、フランス公使に頼っていた幕府には、これを徹底的に弾圧することができなかったが、新政府にはフランスへの遠慮はなかった。五箇条の御誓文発布と同日の5枚の立札の一にも「切支丹邪宗門」は旧来どおり堅く禁止していた。イギリス公使は「切支丹を邪宗とはなにごとぞ」と強く抗議したが、政府は「切支丹宗門の儀はこれまで御制禁の通り固く相守るべきこと」と「邪宗門の儀は堅く禁止候こと」と別書するだけで、切支丹弾圧の方針は少しも動かさなかった。列国公使、とりわけイギリス公使には何事も言いなりになる政府であるが、このことだけは一歩も譲らなかった。
 冒頭にも述べた通り、天皇を神格化し国民の思想的・宗教的統一をはかり、欧米列強に対抗し得る強力な国家建設を目指す明治政府にとって、神はキリストでもなく阿弥陀如来でもなく、天照大神、唯一でなければならなかったのである。