<宗教編資料1>

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  仏教の諸宗派
 
仏教の移入・大乗仏教
 日本への仏教伝来は、6世紀の半ば(欽明天皇 552年、または、宣化天皇 538年)といわれている。まず、支配階級の間に信奉され、皇室歴代の尊崇を受け、特に推古朝の聖徳太子のときに盛んになった。以降、おもに貴族階級に信奉され、その帰依、援助を受けて広まったが、鎌倉時代のちには、仏教が日本の精神風土に合うように変容・日本的なものに改まるとともに、一般民衆の間に深く浸透することになった。
 日本で栄え今日まで残っている仏教は『大乗仏教』(註1)である。これは、風土、社会、人々の習慣の違いに応じて適合できるように、仏教の教えを柔軟に解釈し成熟させたものだといえよう。日本は、初めのうちは朝鮮から、のちには中国本土から、仏教諸宗派の伝統をとり入れた。6世紀以後、この仏教は日本の文化の重要な要素となり、日本人・なかんづく指導層の精神面に強い影響を与えた。多少の変容は加えつつもその教え−仏教は中国の大乗仏教に従っており、基準となった経典は大蔵経である。7世紀に入り、日本の留学僧が中国に渡って実践法や組織法を学び帰国し、諸種の儀礼を伝え諸宗派を成立させたが、摂取受容した諸要素は新しい環境に適応するように変容された。しかしながら、これらは大乗仏教の仏教本来の信仰から逸脱するものではなく、異なった状況に応じた必然的な変容・発展であると考えられる。その教えは、いずれも世俗肯定の立場に立っているもので、日本仏教の世俗主義的傾向は聖徳太子のときからすでに認められるものであった。
 
奈良の六宗・南都六宗
 奈良時代(710~794年)には、6つの哲学的宗派が中国から導入された。
 「律・倶舎(ぐしゃ)・成実・三論・法相・華厳」の6宗派で、これを『南都六宗』という。これらはおもに学問的な宗派として、支配階級や学僧の間に遵奉されていたにとどまり、後代には衰えた。現在では「律・法相・華厳」の3宗派だけが残っている。
 「律宗」 伝統的、保守的な戒律を遵奉実行する宗派であり、『四分律』という戒律書に準拠していて、小乗仏教(註2)の系統に属するが、大乗仏教にも通ずるものとして解釈されている。鑑真(688~763年)によって伝えられ、その本山は奈良の唐招提寺である。
 「倶舎(ぐしゃ)宗」 世親の著した『阿毘達磨倶舎論』を研究する宗派である。この書は我々個人存在の構成要素は七五三に分類されるが、それらはすべて過去・現在・未来を通じて実存すると説く、説一切有部の教義を適切に紹介した綱要書であると見なされていた。この宗派は現在残っていない。
 「成実宗」 ハリバルマン(3~4世紀)の著した『成実論(真理の完成)』という論書を研究する宗派である。説一切有部と同様に人間の個人存在は空虚なものであるが、さらにそれを構成しているもろもろの構成要素(諸法)も空である(人法二空)と説く。この宗派は現在は残っていない。
 「法相宗」 この宗派では、万有はただ阿頼耶識という根源的精神の現し出したものに他ならぬと説き(唯識説)、形而上学的な観念論の体系を述べている。また、若干の生けるものども(有情(うじょう))はどうしても仏になることができないと主張した。これらはインドの護法という学者の説を主として述べた『成唯識論』に基づくものであり、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)(三蔵法師)によって中国に伝えられた。現在、奈良の薬師寺、興福寺などに伝えられている。この学問は、かつては法隆寺、京都の清水寺などでも講学されたが、現在では法隆寺は聖徳宗という1つの宗派として独立し、また、清水寺は北法相宗という名をたてて独立している。
 「三論宗」 龍樹の『中論』『十二門論』提婆の『百論』の3つの論書を根拠として研究する宗派である。言語では表現しがたい「空」の理を説く。この宗派も現在は残っていない。
 「華厳宗」 『華厳経』を典拠とする宗派であり、現実社会は「華をもて厳(かざ)られた」ように壮麗なものであるという意味からこの名を称する。万物は高い真理の立場(法界)からみるとすべて完全にとけあっている(円融)のであって、孤立したものは存在しないと説き、いかなる存在も潜在的意味での仏であると主張する。総本山は奈良の東大寺である。
 奈良時代には大仏(毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ))の像が造られ、東大寺に安置された。それは、華厳経の説かれている万物の根源である仏の宇宙的身体を象徴しているものであり、周囲の小さな仏たちを通して光をあまねく照らし輝かし、100億の世界に渡って教えを説いているという。
 
平安仏教・天台宗と真言宗
 平安時代(794~1185年)の初めには、仏教研究のために中国に赴いた2人の留学僧によって、2つの新しい宗派が創設された。それは『天台宗と真言宗』である。
 「天台宗」 日本における天台宗の開創は伝教大師最澄(767~822年)である。
 天台宗の教義は『法華経』に準拠しているが、同時に中国の天台大師智豈頁の解釈に従っている。仏教には種々の教えがあるが、天台大師はそれらをすべて統合した。智豈頁の見解によると、種々異なった教えは、みな歴史的人物としての釈尊が悟りを開いてから亡くなるまでの40余年の間に説いたものであるが、教えを聞く人の精神的素質の異なるのに応じて、順次に高いレベルの教えを説き、最後に『法華経』が説かれるのであると解する。仏教のいかなる教えにも、全体の骨組みのなかで、なんらかの意義を認めようとする包容的態度は、多くの修行僧の心をひきつけた。
 最澄は中国の天台宗よりも、さらに包容的、融合的立場をとり、『法華経』のみならず、真言密教、禅、律なども取入れている。
 総本山は比叡山延暦寺(滋賀県大津市)である。
 「真言宗」 日本の真言宗(密教)は弘法大師空海(774~835年)が開創した。
 真言(mantra)とは、もとはベーダにおける祈祷の文句を意味したが、仏教では秘密の、神秘力をもつ呪句を意味する。真言宗は真言密教ともいわれ、インドでは金剛乗・Vajrayanaと呼ばれたものである。この立場の見解によると、一般の経典の教えは釈尊の説いたものであり、「顕教」であるが、真言宗の教えは宇宙的身体(法身)の大日如来・Mahavairocanaの説いたものであって、一般凡夫には秘せられている高次の教えであるから密教であるという。
 大日如来の最高の智慧は、一切衆生のうちに潜在していて、われわれ凡夫もその本質において仏と異なったものではないから、身に儀式を行って印契(手指で特殊な形を示すこと)を現じ、口に真言を唱え、心にヨーガを行じて仏を念ずると、行者の三業(身・口・意の働き)と仏の三業とが一体となって融合し、入我我入の境地を実現する。これは現世において実現できることであるとして、「即身成仏」(この身のままで仏となること)を説いた。真言密教には、もともとインドのタントラ教の影響があり、卑猥な要素も少なくなかったが、弘法大師によって純化され、高次の教えとして体系化された。しかし、一般民衆の間では密教の種々複雑な儀式が、現世利益を実現するために効験あるものとして奉ぜられてきた。
 総本山の高野山金剛峰寺は、和歌山県北東部の千メートル級の山岳に囲まれた真言宗の霊地に建てられている。
 天台宗と真言宗とは、巨大緻密な教養体系をつくりあげたが、現実には呪術的儀礼体系として重んじられていた。
 
鎌倉時代の諸宗派
 鎌倉時代(1185~1333年)には新たな諸宗派が出現して、大乗仏教を庶民の宗教的要求にますます緊密に適応するような運動を展開した。
 従前の諸宗派は国家の保護の下に確立されたものであり、宮廷の貴族や教養ある知識人に向いていたが、それらの教義学や儀式はあまりにも複雑で、一般民衆には向いていなかった。貴族が没落し社会的秩序の崩壊しつつある時代には、荘園をもった特権階級の僧侶は腐敗し、世俗的となっていった。そこに武士階級が興隆し、民衆は苦難災厄に悩まされていた。そこで、宗教の機能は単純化される必要があった。この状況に応じるために新たな諸宗派が興ったのである。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて浄土教が盛んとなり、良忍融通念仏宗を、法然が浄土宗を、親鸞が浄土真宗を、一遍が時宗を創始した。これに対して、法華経を尊崇する立場から、日蓮が日蓮宗を開いた。また、大陸から禅宗が移入された。
 「浄土宗」 法然(1133~1212年)によって開創された。
 法然は若い時から天台の諸教理を熱心に研究したが、どうしても内心の平安が得られなかった。そこで、ついに、深遠、難解な教義学も、複雑な儀式も、戒律の実践も、禅定の実修も、人間を悪から解脱させてくれるものではないと痛切に感じて、ひとえに他力を頼む浄土教の教えに帰依した。善悪にまつわられている末世の凡夫を救う者は、「阿弥陀仏(あみだぶつ)」である。『大無量寿経』によると、阿弥陀仏はかつて過去世に法蔵菩薩という修行者として、他人のために善行を行い48の誓願を立てたのであるが、信仰をもって彼の名(阿弥陀仏)を唱える者はすべて極楽浄土に救いとられる。極楽浄土は法蔵菩薩の誓願によってつくりだされた理想の国土である。阿弥陀仏の名を唱えること(念仏)は法然以前からも行われていたが、法然は念仏こそ末法の世の人々のなすべき唯一のことであると説いて、信徒の集団を結成しいつも「南無阿弥陀仏」(無量寿仏に帰依し奉る)と唱えることを教えた。
 法然は念仏によってのみ極楽浄土に生まれ変わる(往生(おうじょう))ことができると確信していた。
 江戸時代になり浄土宗は、天台宗・真言宗をしのぎ大きく発展したが、それは、三河以来の徳川家と浄土宗の関係から、政権交代の転換期にあって、念仏信仰を通じて、家康・徳川政権との関係を巧みに処理した『増上寺の源誉存応(1544~1620年)』と『知恩院の満誉尊照(1562~1620年)』の手腕によるところが大きい。家康は慶長3(1598)年に貝塚増上寺を、江戸の芝に移し菩提所とし諸堂宇を造営(芝の増上寺)、同8年に知恩院を菩提所と定め寺領703石を寄進、堂舎を造営した。
 総本山は華頂山智恩教院大谷寺・知恩院は俗称(京都東山)、大本山は増上寺(東京芝)・知恩寺(京都)・清浄華院(京都)・善導寺(福岡)・光明寺(鎌倉)・善光寺大本願(長野)の六ケ寺がある。
 「浄土真宗」 親鸞(1173~1262年)によって開創された。
 親鸞を開祖とする一派。浄土真宗とは、阿弥陀仏の西方浄土への往生を説く浄土教のうち、真実の教えを表す宗という意味である。正式には真宗、一向宗、一向衆、門徒宗、無礙光宗ともいう。
 浄土真宗を開創したといわれる親鸞は、9歳で出家し比叡山で修行したが満足せず29歳の時(1201)、専修念仏を説き多くの信者を集めていた法然の弟子となった。親鸞は、たとえ法然にだまされ地獄へ落ちるとも悔いはない(『歎異鈔』)、とまで、その教えに傾倒し承元元(1207)年の浄土宗法難の際には、連座して越後に流された。3年余りで罪は許されたが、以後、越後・関東の各地で布教活動を続け、60歳を過ぎてから帰京した。その後は教化と著述に努め弘長2(1262)年、90歳で没している。
 親鸞自身は、多年東国で布教し多数の門弟を得たが、一宗を開創し教団を設立する考えは全く持っていなかった。そのことは、門弟を同朋とみなし、自ら「弟子一人ももたず候」(『歎異鈔』)と語っていることや、生涯に寺一つもたなかったことからもよく窺われる。しかし、真宗(浄土真宗)では、親鸞の主著『教行信証』6巻を根本聖典とし、その著された年とされる、元仁元(1224)年を立教開宗の年としている。なお、『教行信証』著作年次については異説があることを付け加えておく。
 浄土宗の分派、また真宗・浄土真宗の開創については、法然の生前、その教えの解釈を巡っていくつかの系統があったことが上げられる。なかでも、念仏はただ1度唱えるだけで往生できるとする「一念義系」と、念仏はできるだけ多く唱えなければ往生できないとする「多念義系」が最も大きなものであった。
 法然の没後、これらの系統から、高弟(幸西・証空・親鸞・聖光・長西・隆寛)らにより分派が生じる。その代表的なものとして、幸西の一念義、証空の西(せい)山義、親鸞の一向義・大谷門徒(一向宗)などは一念義系に属し、聖光の鎮西義、長西の諸行本願義(九品寺義)、隆寛の多念義などは、いずれも多念義系に属した。
 このなかで現在まで残っているのが、浄土宗と呼ばれるようになった聖光の鎮西義(多念義系)と証空の西(せい)山義(一念義系)、そして親鸞の一向義、すなわち真宗・浄土真宗である。なお、当然のことながら真宗は一念義と西(せい)山義に近い。
 真宗は親鸞の血統を中心とする「本願寺教団」は、織豊時代末期−徳川家康が台頭してきた時代に、浄土真宗本願寺派(西本願寺)と真宗大谷派(東本願寺)に分かれたが、これに先立ち、親鸞の弟子の系統を伝える真宗高田派、弟子の法系に連なる真宗仏光寺派・木辺(きべ)派・三門徒派などに分かれ今日に至っているが、教義は各派ともほとんど差異はない。なお、現在の教勢は本願寺派と大谷派が拮抗し、他各派を圧倒している。この本願寺教団の飛躍的拡大は、真宗中興の祖といわれる本願寺八世「蓮如」(1415~1499年)の力によるものである。教義を平易に解説した御文(おぶみ)など、有効な布教手段の活用を図ること。一方、村制を基盤にして精力的な教団活動の組織化を推進したからである。すなわち、同一の信仰による農民の広範囲な組織化と団結が生まれ、守護・地頭、時には戦国大名にさえ対抗しうる実力を有するようになった。こうして起こされた支配権力に対する抵抗運動は「一向一揆」と呼ばれたが、この運動は本願寺門徒のみにみられ、他の真宗諸派には起こらなかった。
 織豊・徳川の政治権力争いが、本願寺教団の東・西本願寺分派の背景にあったというのも、門徒の惣村における広範囲な強力な団結、組織力、そして大名にも対抗する行動力があったからと推測される。
 真宗大谷派の本山は京都市下京区東本願寺。浄土真宗本願寺派の本山は同、西本願寺。
 「禅宗」 菩提達摩・Bodhidharmaによって中国に伝えられる。
 その末流は五家七宗に分かれており、その宗派、「臨済宗」が栄西(1141~1215年)らによって、「曹洞宗」が道元(1200~1253年)によって、12,13世紀日本へ伝えられた。
 禅宗ではなんら固定的な教義を立てることなく(不立文字)、釈尊を尊敬し、仏教の命は書き記された教えによるのではなく、師から弟子へと直接に伝えられるものであり(教外別伝)、われわれが本来もっている自らの仏心を直観すること(直指人心)によって、究極の仏の境地に達する(見性成仏)という。一般に日常生活における勤労(作務)を重視し、それも禅の修行のうちに含まれているという。禅院において最も重要なのは僧堂であり、禅僧はそこで坐禅を修する。曹洞禅における実践法は、中国以来の臨済禅とはかなり異なっている。道元は、禅の実践の本質的なものは坐禅であるとした。道元は「坐禅はすなわち安楽の法門なり」(『普勧座禅儀』)といっている。
 この点では禅の他の諸派と共通であったが、曹洞宗はさらに一歩進め、公案をも捨ててしまったのである。その立場は黙照禅と呼ばれ、修行者は何物かに向かって心を集中するように努めてはならない。無念無想になろうと思って無理にあがくならば、かえってとらわれのうちに陥る。道元は「もしも坐禅の間に、妄想が起こるならば、それを抑えようとしてはならない。妄想の起こるにまかせよ」と教えた。また、道元は禅宗という呼称を嫌った。道元は、自分は仏教の正しい道を伝えるのだと宣言した。もしも人が「禅宗」という語で「道」を限定するならば、それは、実は道を失うことになるのであると諭した。
 概していうと、臨済宗のほうが修行に関しても、教化指導法に関してもきびしいところがある(機法峻烈)。これに対して曹洞宗では行いの行き届いていること(行持綿密)を重んじ、倫理的な戒め(十重禁戒)を説き、四摂事(布施・愛語・利行・同事)によって他人をいたわり、他人を救うべき事を教える。臨済宗は古来支配階級(幕府・大名・武士)の帰依を受け、鎌倉と京都にそれぞれ五山と称する大寺院がある。
 曹洞宗は地方の武士の間に広まり、総持寺の開祖螢山紹瑾(けいざんじょうきん)(1268~1325年)が密教的修法を取入れてからは、民衆の間にも広まるようになった。曹洞宗は単独の教団としては日本最大の寺院・教師数を持つ仏教教団で、吉祥山永平寺(福井県吉田郡)、諸嶽山総持寺(横浜鶴見区・もと石川県櫛比村)を大本山とする。
 「日蓮宗」 日蓮(1222~1282年)によって開創された。
 日蓮は天台宗の学問の根本道場である比叡山(延暦寺)で多年仏典を研学した後に、仏教の真生命は『法華経』のうちに開顕されているが、天台宗など当時の諸宗派はその意義を誤解しているとの考えを持った。日蓮はこの経典の詳しい名称である『妙法蓮華経』の題目の1字ごとに深い意義を認め、この『法華経』の真趣意を理解し、実践すべきであると主張した。しかし、それは一般世人にはなかなか困難であるから、ただ「南無妙法蓮華経」(『妙法蓮華経』に帰依し奉る)と繰り返し唱えるだけ(唱題)でも救われると説いた。
 この『法華経』に対する日蓮の熱烈な信仰と、他の宗派や当時の政治権力・鎌倉幕府に対する激しい批判、非難は、鋭い対立、摩擦を引起こした。当時の宗教的、政治的指導者たちは「国を危うからしめている」と言って論難し、これに対して日蓮は『立正安国論』を著し幕府に献じ国難を予言した。そのために日蓮は迫害され伊豆や佐渡へ流された。しかし、日蓮の不撓不屈の信念と勇気はやがて、武士や民衆の間に幾多の帰依者を得るにいたった。
 日蓮は『法華経』に説く永遠の仏を信じた。それは衆生を救うために、この世に繰返し現れ出るものであり、歴史的人物としての釈尊はその現れに他ならず、仏は常住不滅であると信じていた。そして、この『法華経』のみが、日本、さらには世界を救うものであると考える日蓮信徒の行動は活発であり、海外にも積極的にその足跡を残した。
 身延山久遠寺(山梨県)を本山とする。日蓮正宗、法華宗、顕本法華宗などの分派がある。
 第二次世界大戦後日本に現れた、いわゆる新興宗教と呼ばれるものの、大部分は日蓮系の信仰を抱いている。
 
室町時代以降の宗派
 14世紀以降には、日本には大きな宗派が成立することはなかった。ただ、徳川時代初期に隠元(1592~1673年)によって、中国から黄檗(おうばく)宗が導き入れられたのにとどまる。
 室町時代末期の社会変動期に、真宗(浄土真宗)と日蓮宗とは、一般民衆の間に急激に広まった。特に蓮如(1415~1499年)以降の真宗教団は、戦国時代の諸大名に対抗し、一大独立国の趣さえあった。
 徳川時代にはキリシタン禁制のため仏教は国教として保護を受けたが、また、世俗的な政治権力の厳重な統制支配(本末制度・檀家制度)を受けた。諸宗派については、そのまま継続し教団の組織は固定した。そんな中で、各宗派の教学は大成され伝統的な教義も確定していった。他面、封建的な制度や思想に対する改革運動は、仏教内部からほとんど起こらなかった。
 近代的思惟の萌芽としては、鈴木正三(1579~1655年)の職業倫理説、至道無難(生没年不詳)、盤珪(1622~1693年)、白隠(1685~1768年)らの禅の民主化運動、普寂(ふじゃく)(1707~1781年)、戒定などの原典批判的研究、慈雲尊者飲光(いんこう)(1718~1804年)の梵学による仏教の真趣意への復帰運動などが目立つ程度で、全面的な宗派改革は行われなかった。
 
明治以降について
 明治維新の際には国粋主義者たちによる廃仏毀釈(本論参照)運動のために、国教としての地位を失い、神仏分離(本論参照)がなされ、神社から仏教的行事が一掃された。のち、僧侶の妻帯は一般化し、肉食など、生活習慣は一般人と大差ないまでに変化した。教団の形態などには著しい変化も、進歩も見られなかったが、19世紀末に西欧から近代的な学問研究法が導入されると共に、学者たち(宗教学・言語学・哲学・民族学など)の間でサンスクリット(インド古代語)・パーリー(セイロンや東南アジアの小乗仏教聖典に用いられているインド語派言語)・チベット・中国の諸言語で書かれた仏典の比較研究が行われ、教義の理解に大きな影響を及ぼすこととなった。
 
 (註1)『大乗仏教』 釈尊(釈迦)の没後、その言行の伝承を中心とした仏教を原始仏教といい、釈尊の法の注釈的研究を主とする派を部派仏教という。これに対して菩薩道−菩薩が自利・利他を円満して仏果に至る道を説き、利他のために働こうとする仏教が起こって、それを信奉する人々が自分たちを大乗仏教と呼んだ。そして原始仏教ならびに部派仏教の人々を小乗仏教と呼んだ。