昭和四十三年(一九六八)七月十六日午後二時(古銭のぎっしりつまったカメ二ケ)翌十七日午前七時(前日同様のカメ一ケ)
二、出土の場所
旧銭亀沢村字志海苔(しのり)(現函館市志海苔町)の道、尾札部―戸井―函館線(現国道二七八号線)史蹟志海苔館跡近くの道路わき。
三、出土の状況
函館開発建設部の道道改良工事を請負っていた、加藤組(函館市)のブルドーザーが、地下一メートル位のところで、古銭の一ぱいつまった大ガメ二ケを発見。古銭は麻紐(あさひも)に通(とお)していた。カメは直経八〇㎝位高さ一m三〇㎝位であった。翌日、その附近でもう一ケのカメを発見、加藤組は開発建設部と協議した結果、全部市立函館博物館に運んだ。
四、古銭の数量
古銭の全重量一、五トン。函館博物館で整理、分類して集計した結果、昭和四十五年四月二十八日、九四種、三七四、四三六枚と発表した。
五、銭貨の種類
時代の古いものでは、前漢の半両、五銖(ごしゅ)、新の貨泉(かせん)、唐の開元通宝から各時代のものがあり、北宋銭、南宋銭も各時代のものがあり、それに続いて元(げん)時代の至大通宝、至正通宝が僅か含まれており、明(みん)時代のものは大中通宝一枚、洪武通宝が十二枚あった。即ち最も新しいものは一三六八年明の太祖時代に鋳造された洪武通宝であった。
六、古銭のはいっていたカメ
三つのカメのうち、一つは能登半島の先端近くの珠洲(すず)の製品で、室町中期のもの、他の二ケは越前(福井県)古窯(こよう)の製品で室町前期末のものと推定された。
七、古銭の埋められた年代
出土古銭のうち最も時代の新しいものが洪武通宝であることと、古銭をつめたカメが室町前期末から室町中期の製品であることから、古銭の埋められたのは、室町時代中期の頃と推定され、長禄元年(一四五七)のコシャマインの乱と結びつけられた。
八、数量の多かったもの。
一万枚以上のものを挙げると次のようになる。
開元通宝 ・唐 (六二一年) 三〇、八一六枚
天聖元宝 ・北栄(一〇二三年) 一七、九二四枚
皇宋通宝 ・〃 (一〇三九年) 四七、〇三一枚
煕寧(きねい)元宝・〃 (一〇六八年) 三四、八九九枚
元豊通宝 ・〃 (一〇七八年) 四三、〇〇九枚
元祐通宝 ・〃 (一〇八六年) 三三、九〇四枚
紹聖元宝 ・〃 (一〇九四年) 一四、九一七枚
聖宋元宝 ・〃 (一一〇一年) 一四、三三三枚
政和通宝 ・北栄(一一一一年) 一五、二〇六枚
北栄時代のものが圧倒的に多く、南宋時代のものがこれに次いでいるが、唐の玄宗皇帝の時代に鋳造され、日本最初の銭貨、和同開珎の手本になったといわれている開元通宝が三万枚も含まれていたことは興味あることである。
銭亀沢・志海苔出土の古銭
九、日本の銭貨
数は少なかったが、皇朝十二銭といわれ、現今では容易に実物を見ることの出来ない和同開珎、万年通宝など八種もの日本古銭が含まれていたことも貴重な資料である。
次に函館博物館で発表した銭亀沢出土古銭の分類一覧表を載せたが、中国、日本の銭貨史だけでなく、東洋史、日本史の遺物として、誠に貴重な資料である。文政四年(一八二一)今から一五〇年前に戸井から出土した約六万枚の古銭と併せて研究することにより、道南史の一部が解明されるものと思う。