この鐘皷は、表面の直径が七寸五分、高さが三寸五分あり、三本の足がついている。円形の表面の縁に次のような銘文が刻まれている。
「奉納田中山御宝前 為二親菩提
施主下総国一坪田村 北崎甚之丞
正徳五乙未天卯月吉祥日
西村和泉守作」
汐首観音堂の大鐘皷(1)
汐首観音堂の大鐘皷(2)
正徳五年(一七一五)四月の作だから、今から(昭和四十七年)二五六年前に作られたものである。銘文によれば、正徳五年に下総国、一坪田村の北崎甚之丞という人が、両親の菩提の為に田中山神社に奉納したものであることがわかる。
この鐘皷は、汐首村の言い伝えでは、明和年間汐首岬で遭難した船が積んでいたもので、船は難破したが、乗組員が全員無事であったので、この船の船主が感謝の気持で、汐首岬にある観音堂に奉納したものだという。
明和年間が確かであれば、この鐘皷を鋳造して田中山神社に奉納した時から四十年以上経過しているので、遭難船の船主は北崎甚之丞でないことがわかる。
田中山という神社はどこにあった神社か、鐘皷をこの神社に奉納した北崎甚之丞という人はどういう人か、汐首岬で遭難した船主は何という人か不明である。又一旦田中山という神社に奉納された鐘皷が、何故汐首岬で遭難した船に積まれていたか、という疑問はあるが、とにかく二百年も昔から寺宝として秘蔵されて汐首観音堂に伝わった文化財である。
下北、大畑町の心光寺に、延命地蔵尊像が安置されているが、この仏像に「元文三年 江戸西村和泉作」と刻まれている。
この仏像を鋳造した元文三年(一七三八)は汐首観音堂の鐘皷を鋳造した正徳五年(一七一五)より二十二年後である。西村和泉守という人は江戸の住人で、仏像も鋳造したことがわかる。下北にまで西村和泉守の鋳造した仏像があるところから、この人は当時仏像造りで有名な人で方々から仏像の鋳造を頼まれたことが推定される。
享保三年(一七一八)六月、今別本覚寺の住職になった貞伝和尚は享保年間有珠善光寺に金銅仏を鋳造して納め、享保十二年(一七二七)、一寸八分の万体仏を鋳造している。貞伝和尚が盛んに仏像を鋳造した頃は、西村和泉守が健在であったので、仏像造りの素人であった貞伝は、西村和泉守から直接仏像造りの方法を伝受されたか、そうでなくても何らかの形で西村和泉守の影響を受けたものと想像される。
とにかく汐首観音堂の西村和泉守作の大鐘皷は、いろいろな謎を秘めた文化財である。