明治五年(一八七二)二月二十九日、東京品川から北海道の国道開さくの為の役人、人夫五百人を乗せ、道路開さくに使用する機械、器具、資材、食糧等を満載して、函館に向けて出帆した、開拓使御用船東京丸が、濃霧のために針路を誤り、三月二日の昼過ぎ、尻岸内村字女那川沖の岩礁に坐礁した。
村人総動員の救助作業により、一人の死傷者もなく、午後八時過ぎまでかかって全員上陸した。然し小さな村に五百人もの人が上陸したため、二日晩から三日の夕方までに村内の米を食い尽してしまった。このままでは村人をも餓死させてしまうということで、四日は朝から雨が降っていたが、五百人の者を何隊かに分けて函館に出発した。一行は日浦、原木の峠を越え、途中古川尻に一泊して函館に到着した。一行が尻岸内村を去った四日から五日にかけてのしけのため、船体はこなごなに打ち砕(くだ)かれ、船体の破片や積荷が海一面に漂流し、或は海岸に打ち寄せられた。
開拓使の発表では、積荷の損実は六千両に及んだという。東京丸は兵部省所属の汽船で、開拓使が雇傭したものであった。この船には開拓使で雇った米人技師、日本人官吏二十七人、東京、伊豆、木曾、日光、南部などから募集した職工、人夫など四七五人が乗っていた。
船長は阿波出身の人で、滝山正門といい、函館への航海は始めての船長であった。
この事件は、開拓使日誌に記録されているが、坐礁したのは昼であり、しけ(○○)にならない前に上陸を終り、一人の死傷者もなかったことは不幸中の幸であった。
東京丸には、初代函館刑務所長を勤め、明治三十年頃、浦河支庁長(日高)を勤めた迫田喜二も乗っていたという。迫田喜二は役人をやめてから七飯町大中山に帰農し、その子孫は大中山に居住している。迫田喜二は生前「東京丸に積んで来た行李(こうり)を揚げることができなかったが、行李の中に西郷南洲の書を入れておいたが、行李は沈むものではないから、漂流して誰かに拾れたものと思っている。今でも西郷南洲の書だけは惜しいと思っている」と子どもたちに語っていたという。
下海岸には開拓使の御用船や軍艦が坐礁したなどという農村では見られないような数多くの船舶の遭難や海難事件があったのである。