十一、軍艦笠置の坐洲事件(大正五年)

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笠置艦

 大正五年七月二十日午後二時、帝国軍艦笠置が尻岸内村字女那川沖合約六、七十間の箇所に坐洲した。尻岸内駐在所からの連絡を受けた戸井分署では、分署長警部菊地庫太が巡査相沢新次郎を従えて現場に急行した。
 調べた結果艦長は海軍大佐桜井真清氏で乗組総人員四百八十名であった。尻岸内消防組員の非常召集を行い、在郷軍人や一般村民を督励して百方救助に手を尽した。七月二十二日秋田沖から軍艦最上が救助の為来航し翌二十三日横須賀軍港から軍艦津軽及び大湊軍港から作業船第二大湊丸及び栗橋丸の二船も来航し、協力して離洲につとめたが、艦底は益々砂の中に埋まり傾斜が甚だしくなり、救助不可能の状態にななった。そこで貴重品その他の陸揚げをした。その後しけが続き、中央部から二つに折れ、残骸を尻岸内海岸に埋めた。
 七月二十日北海道庁長官は函館警察署長警視菅貞仁を代理として艦長を慰問させた。(戸井分署記録)
 
   海軍省記録公文書
 大正五年七月十三日、軍艦笠置は、艦長海軍大佐桜井真澄指揮の下に、男鹿半島船川湾に坐洲せる運送船志自岐(しじき)を舞鶴軍港に曳航(えいこう)する任務を命ぜられ、二十一日船川湾着の予定を以て、十八日横須賀軍港を出発、七月二十日、午後二時三十分、濃霧の中を速力十ノットにて航行中、水深急減したるを以て、反航のため、面舵一杯にて回頭中、二時三十四分、艦首及び舷に陸岸を発見し、直ちに後進減速したるも、逐に二時三十六分、尻岸内海浜水深およそ三尋の処(日浦岬北東二浬)に左舷側を陸岸に面して坐洲した。
 津軽、最上(もがみ)、栗楷(くりはし)丸の助力を得て、協力離洲に努めたるも、風浪及び潮流の障害多く、作業は進捗せず、漸次不良の状態となり、到底簡単に引下しの見込みがなくなったので、兵器、弾薬、その他移動可能な物件は概ねこれを取外し、救助艦船に移載した後、大正五年十一月五日海軍々艦籍より除かれ、艦体は売却された。