お正月のトソ気分も抜けたこの日は、朝雪がチラチラ降っていたが上天気で、波一つ立たない上凪(じょうなぎ)であった。タコやババガレイの好漁が続いていたので、戸井の漁師は一斉に出漁した。この日も朝から好漁があり、夢中で操業中、午前十時過ぎに、風がそよそよ吹き出し、水平線の三方から黒い雲が上り、上空の雲足が速くなり、ヒカタの突風の前徴があらわれた。経験の深い漁師は「情知らずのヒカタが来るぞ」といって、操業を中止して帰り仕度にかかっていた。然し年が若く経験も少なく、血気盛んな者や、次から次へとタコやババカレイが、かかって来ている人々の船は急に操業を中止せずに続けていた。
こうしているうちに、微風がピタリと止んで、約二十分位無風状態が続いたと思う頃、急激にヒカタの突風が吹き出した。出漁中の漁船は、はえ縄を途中から切り捨てなどして、一斉に操業を中止して、帰途についた。
この頃は、雪をつけて風は益々強くなり、大暴風雪になり、吹雪のために視界一〇〇米内外という状態になっていた。各漁船は視界のきかない嵐の中を、カジとエンジンに運命を托して陸岸に急いだ。
経験の深い漁師は、ヒカタの突風の避難場所を心得ているので、小安、釜谷、汐首の船でも戸井漁港や日浦方面に避難し、瀬田来、弁才町、泊町、浜町などの船は、日浦、大間(尻岸内)まで避難するのが常である。
船は正午頃次々と、沿岸や漁港附近に達したが、ヒカタの場合の避難の常道を守らず、釜谷漁港を目ざして避難した船が、釜谷漁港附近で四隻遭難し、死者六名を出した。戸井漁港を目ざして避難した船のうち、三隻が浜町沿岸と戸井漁港の港口附近で遭難して、死者七名を出した。経験の深い人が船長をしている船は、漁港などを頭におかず、一気に日浦の湾に避難し、死傷者などは一人もなく、船体にもカスリ傷一つつけなかったのである。
正午頃には遭難船や死者がわかり村中大騒ぎになり、日浦方面に避難して無事なことを知らない家族は、行方不明の船を尋ねて、泣き叫びながら馳け廻ったのである。
午後には何事もなかったように、上天気になったが、遭難者の家族、親戚、隣人の嘆き悲しむ慟哭の声が村中にあふれ、村は悲痛な空気に覆われたのである。
この日から「沖止め」にして、村中の船が総出(そうで)で、十三人の死体捜索をしたのである。十三人の生命を奪った一月十六日のヒカタの突風は、前後の情況から判断すると、昭和二九年(一九五四)九月十五日の十五号台風のようなもので、津軽海峡の一部に「台風の目」が発生したものと思われる。ヒカタの強風は、漁師の「命とりの風」であり、民謡にうたわれているように「情知らずの風」である。
この日、漁に出ていた船は、殆んど小さな着火船(ちゃっかせん)であり、中には磯舟にタロ(エンジンの名)をつけたものもあった。船には、親子、兄弟など二人乃至三人乗っていた。こんな事故があると、一家の杖とも柱とも頼む人を一挙に失うのである。
一月十六日の遭難者は次表の通りである。
[遭難者]
十三人の遺体の引揚げが終り、昭和三十八年二月五日、汐首小学校を会場にして、合同葬がしめやかに執行され、遺族や村民は涙を新たにした。
翌三月二十八日、この海難事故を契機として、津軽海峡を一望に見渡せる、テレビ塔のある山の中腹に、遭難者の霊を弔い、併せて、海上安全、豊漁祈願のために、海津社が創建された。
同年六月十六日、釜谷漁港附近に「近海遭難者供養塔」が建てられ、翌三十九年八月二十三日、戸井漁港附近のトンネルの側にも「近海遭難者供養塔」が建てられた。
(戸井漁港附近の供港塔は、一月十六日の海難者と、昭和三九年七月二五日、オツケの浜で水泳中に溺死した、柳田尚文の長男隆一の供養とを併わせて建立したものである)
海難者供養塔(東浜町)
海難供養碑(釜谷町)
「アイ(北東風)の朝なぎ、クダリ(南風)の夜なぎ、情知らずの西ヒカタ(南西風)」と戸井の漁民たちが歌っている。漁民は天気予報に十分注意すると共に、「命とりのヒカタ」の前徴を体験で知り、昭和三十八年のような惨禍を再び繰り返さないようにすべきである。