〓吉田家の祖は才吉と称し、古い時代に本州から亀田村字上山(かみやま)で代々農業を営んでいた家の後裔である。
才吉は文化四年(一八〇七)上山で生れたが、長ずるにつれて、農業では一生うだつ(○○○)が上らず、産を興すことは不可能であると考え、漁業に転向することを決意し、生れ故郷の上山を去って釜谷に居を構えたのである。
五代目の菊太郎が「先祖にクメドンとか、クメ五郎と呼ばれている人がいたと、祖父大吉が語っていた」というが、「クメドン・クメ五郎」と呼ばれていた人は誰か不明である。
才吉は文久三年(一八六三)二月九日、五十八才で病歿し、佐治衛門がその後をつぎ、家業に精励して吉田家の基礎を築き、公共の事業には卒先して多額の寄附した。佐治右衛門は明治二十四年(一八九一)八月八日、病歿した。
佐治右衛門の歿後、大吉が後をついだ。大吉は少年時代石崎村の小林左右平の寺子屋に学んだ。寺子屋を修了してからは父を助けて漁業に従事していたが、漁撈を体験し、世間を知り独立の計画を立てるには、出稼ぎが最もよいと考え、安政五年(一八五八)十七才の時、自ら進んで、小樽、余市方面の鰊漁場の雇(やとい)となり、努力奮斗した結果、二、三年の間に、漁撈のことについて衆に抜きんで、網元よりその技倆を認められ、二十才の時には船頭に推されて、多くの漁夫を指揮した。
父佐治右衛門も村にいて精励し、鰮網一ケ統を経営するくらいの金を蓄えたが、漁場を買う資金が不足しているところへ、数年鰊漁場で働らき、倹約して蓄えた金を持って大吉が帰村した。
大吉は自分の働いて蓄えた金を出して漁場を買収して建網一ケ統を経営し、更に一ケ統をふやして二ケ統とした。大吉は父と協力して鰮漁に専念し、大漁が続いて忽ち資産家になった。大吉は又不漁に備えるために、漁業の余暇に畑地五町歩を開懇して農業を兼営し、山地を購入して造林事業にも力を入れ、吉田家の基礎を築いたのである。
大吉は明治十四年(一八八一)四十才の時学務委員に任命され、明治十五年(一八八二)二月小安小学校創立の際、大吉の力が大きかったという。
明治二十年(一八八七)村総代に挙げられ、翌二十一年(一八八八)釜谷漁業組合頭取に推され、三十五年(一九〇二)第六部長に任命される等、多くの公職、名誉職についた。又公共のためには多額の寄附金を惜しまず、数え切れないくらいの賞状、木盃を授与された。
明治二十年(一八八七)九月三日釜谷沖合で、有珠郡西モンベツの小廻船が遭難し、乗組が皆溺死寸前のところ大吉等が挺身して五名の乗組員を救助した。この行為に対して、時の北海道庁第二代長官永山武四郎から表彰状を授与された。
大吉は功成り名遂げて、大正三年(一九一四)九月七日、七十四才で病歿した。大吉の長男勝三郎は、父に先だち明治三六年(一九〇三)四月二十一日、三十六才で病歿しているので、孫の菊太郎が大吉の後をついだ。
菊太郎は明治二十三年(一八九〇)九月三十日、勝三郎の長男として生れ、祖父大吉の歿した、大正二年九月に吉田家を継いだ。十五才で小学校を卒業し、祖父大吉、父勝三郎について漁撈のことを体験した。明治四十三年(一九一〇)十一月近衛第四聯隊に入営、四十四年(一九一一)十一月、上等兵に昇任し、大正元年(一九一二)除隊して帰村した。帰村後祖父大吉の残した鰮漁業を経営し、益々繁栄した。菊太郎は村会議員、亀田水産組合代議員その他多くの役職についた。
菊太郎は老年になって、養子勇一郎に後を譲(ゆず)って隠居し、現在八十二才で健在である。
勇一郎は明治四十四年(一九一一)八月二十三日、秋田県境近くの青森県西津軽郡岩崎村字大間越(おおまごし)に生れ、幼ない時から辛酸をなめ、十六、七の頃から炭焼きをさせられ、こんな仕事をしていては一生うだつ(○○○)があがらないと考え、昭和六年(一九三一)二十才の時に函館に渡り、吉田菊太郎に見込まれて養子になった人である。
勇一郎は温厚篤実で勤勉、村民の信望厚く、昭和三十九年(一九六四)より村会議員に当選し、爾来(じらい)二期当選し、現在、町会議員、戸井西部漁業協同組合長その他多くの役職についている。
勇一郎は初代才吉より数えて、六代目である。