〓吉崎家は、〓吉崎家、〓吉崎家などの総本家であり、〓若松家、〓桜井家などはその縁戚である。
〓吉崎家の先祖は七五郎といい、本州から瀬田来に移住して漁業を営んでいた。安政年間の鰮大漁の頃、青森県西津軽郡蓬田村から七五郎のところへ毎年出稼ぎに来ている青年がいた。
この青年は資性剛健で胆力があり、漁撈のことにも精通しており、非常に勤勉で実践躬行型の人であった。酒を好み、斗酒なお辞せずという酒豪であったが、豪飲しても翌日の仕事を怠るということがなく、小事にこだわらず、資性闊達で精気全身にあふれ、生れながらにして、漁師の気質を備えているといってもいい位の好青年であった。七五郎はこの青年にほれ込んだのである。
七五郎は男子に恵まれなかったので、この青年を長女タマの聟養子にして、自分の後を継がせようと考え、青年の父母とも交渉し、安政五年にタマの聟に迎えた。この時、天保六年生れの青年は二十四才、タマは二十三才であった。
七五郎の歿後、この青年が七五郎を襲名し二代目を継いだ。結婚した翌年長男力松が生れ、それから二年後の文久元年に岩吉が生れ、夫婦協力して家業に励んだ。力松、岩吉が長じてからは、鰮漁が終ると七五郎は力松や岩吉を連れて寿都、島牧、磯谷方面に出稼ぎに行き、我が子を指導した。
こうして資金を蓄え、後志(しりべし)地方に鰊の建網を経営するようになり家運が益々隆盛になったが、明治三十五年(一九〇二)七月二十三日、六十八才で病歿した。
この時長男力松は四十四才、二男岩吉は四十二才であった。父七五郎の死後も後志の鰊漁場を継続し、大漁続きで資産を増加した。力松は鰊漁の不安定なことを考え鰊漁をやめて、地元の鰮漁場を拡張して、鰮漁に専念し、毎年大漁が続いて巨萬の富を築いた。この頃の吉崎家は〓印の商標と共に道南屈指の網元として、その名を喧伝されたのである。
力松は〓小柳家に次いで数万円を投じて袋澗を造ったり、瀬田来の道路六十間の補修に私費三百円を投じたり、その他公共のために力を尽したので、時の北海道庁長官園田安賢より表彰状と共に銀盃三組を授与され、その他多くの表彰状や木盃を賜った。
力松は資性温厚篤実で勤勉力行をもって生涯を貫き、父の遺志をついで巨萬の富を積み重ねたのである。力松は金に不自由しない境遇になっても、身なりを飾らず、節約につとめ、後進に対しては奢侈(しゃし)を戒め、勤倹(きんけん)を教えた。
然し事業や公共の為には惜しまず金を投じた。力松は七十才に至るまで漁撈に従事した。母タカは大正十三年(一八三六)吉崎家の隆盛を喜びながら八十九才で長逝した。力松の妻ソヨは石崎村の網元武井弥四郎兵衛の長女で、吉崎家に嫁して以来、七五郎、タマに孝養を尽し、三人の子を養てながら夫力松を助けて働いた。
力松の歿後長男松三郎が〓吉崎家を継ぎ、二男浅吉は分家し、長女マサは村内の〓桜井忠太郎に嫁した。
〓吉崎家
七五郎の二男岩吉は文久元年生れで、分家して〓を家号とした。分家してから村内で鰮漁場を経営し、樺太に鰊漁場を経営したが、毎年大漁が続き岩吉一代で本家に劣らない程の身代を築いた。
妻ソトとの間に一男二女があった。岩吉が昭和十二年十月、七十七才で病歿し、長男松四郎が父の名を襲名して二代岩吉となった。初代岩吉が歿して二年目の昭和十四年(一九三九)ソトは夫の後を追うように七十九才で死去した。
二代岩吉は父の遺志を心に刻み、妻みよと協力して勤勉力行した。岩吉は温厚篤実で村民の信用あり、村会議員や学校、神社、部落の多くの役職について公共の為に尽した。妻みよとの間に二男五女があったが、二男岩造は昭和三十二年僅か二十一才で死去し、妻みよは昭和四十三年六十三才で病歿した。
〓吉崎家
初代岩吉の長女マツに三五郎を聟養子に迎え〓吉崎家を立てさせた。
三五郎とマツとの間に、長男仁三郎と二男吉三郎が生れたが、三五郎は大正七年(一九一八)八月三十一才の若さで病歿した。この時長男仁三郎は僅か八才で、母マツと共に辛酸をなめ、長ずるにつれて本家〓吉崎家の鰮漁を助けて粉骨砕身した。〓家から分家した〓家を興したのは仁三郎の力に負うところが多かったといわれている。
仁三郎は昭和二十六年四月、四十二才の時、戸井村議会議員に立候補して当選し、爾来(じらい)現在まで連続六期当選し、昭和四十二年五期目から議長に挙げられ、現在戸井町議会議長を勤めている。
三五郎の二男即ち仁三郎の弟吉三郎は昭和十四年一月、二十九才で病歿した。
〓若松家
二代七五郎の三男市蔵は村内の〓若松忠吉の養子になったが、分家して〓若松家を立て、市之助、市雄と続いている。