初代池田栄吉は嘉永三年(一八五〇)一月七日、戸井村に生れ父を市五郎、母をアサ子といった。父は漁業に従事していたが、家は貧しく栄吉は幼ない頃から、父母の手伝いをして働いた。
ところが不幸にも、栄吉が十才になった安政六年(一八五九)に母アサ子が病歿し、次いで文久元年(一八六一)栄吉が十二才の時、父市五郎が病歿した。こうして栄吉は僅か二年の間に、相次いで父母を失ったのである。
父母を失って途方にくれている栄吉を、下北郡川内村より移住して漁業を営んでいた、〓金沢藤吉が深くあわれみ、栄吉を引き取って養った。栄吉は金沢家の恩に感じ、骨身を惜しまず働いた。
慶応元年(一八六五)十六才の時、自ら希望して、古宇地方の鰊漁場に出稼ぎに行き、鰮の漁期には戸井にいて金沢家の手伝いをするということを繰り返した。金沢藤吉は、栄吉の人物とその勤勉さにほれこみ、明治五年(一八七二)栄吉が二十三才の時、藤吉の先祖の郷里である下北郡川内村の杉本某の妹ソメ子を嫁に迎えてやった。
金沢家で厚岸に小鰊漁場を経営した時には、栄吉が船頭となり、妻ソメ子と共に厚岸に赴き、鰮の漁期には帰村して金沢家のために精励した。こうして夫婦協力して粒々辛苦し、独立のための資金を蓄え、明治十九年(一八八六)栄吉が三十六才の時に、金沢家から独立したのである。
独立してすぐ、戸井村に鰮の曳網(ひきあみ)一ケ統を経営した。次いで建網一ケ統をふやし、更に厚岸に小鰊漁場を設けた。栄吉は若い時から鰮や鰊漁を経験したために、漁撈のことに精通したことに加え、漁運にも恵まれ、戸井の鰮漁は曳き網、建網共に大漁が続き、厚岸の小鰊漁場は開設以来一度も不漁に遇(あ)ったことがなく、金沢家より独立以来十数年にして巨萬の富を築いたのである。
明治三十六年(一九〇三)八月、千数百円を投じて、宏荘な住宅を新築し、明治三十七年頃は、漁場三ケ所、宅地四ケ所、山林十五町歩を所有する大網元になった。
栄吉の名声は益々あがり、学校、警察、病院などの公共物の建築には卒先して多額の寄附をし、又推されて種々の役職につき、戸井漁業組合長を勤めること十数年に及んだ。
幼にして父母を失い、他家に養われて艱(かん)難辛苦して、一代にして巨萬の富を築いた栄吉夫婦も、子宝に恵まれず村内の網元〓水戸家のハナを養女とした。
池田家の全盛時には、百余名の漁夫を使うことがあったが、栄吉は自ら船頭となって漁夫を指揮し、他の網元のように雇船頭を使わなかった。
こうして一生働き通した栄吉は、大正二年(一九一三)四月六日、六十四才で病歿した。一生苦楽を共にし、夫を助けて働き続けた妻ソメ子は、夫の死去をいたく悲しみ、夫の菩提を弔うために、翌大正三年(一九一四)十二月六日、亡夫栄吉の墓碑を建立した。
ソメ子は栄吉の歿後二年目の大正四年(一九一五)五月、養女ハナに深沢鉄蔵を聟に迎えて亡夫の後を継がせ、栄吉を襲名させた。
財産家の聟は、大てい一代でかまど(・・・)を返すという例が多いが、二代栄吉は例外で、初代の残した事業を益々発展させ、財産も倍増させたのである。
二代栄吉を襲名して池田家を継いだ深沢鉄蔵は、明治二十三年(一八九〇)六月二十日、駿河国庵原郡江尻村の漁業深沢弥吉の五男に生れた人である。
鉄蔵は明治三十八年(一九〇五)十五才の時、庵原郡清川町の肥料問屋、山梨重太方に見習奉公をして、ここに四ケ年間勤め、明治四十三年(一九一〇)二十才の時、函館の保田商店に勤め、保田(やすだ)家の経営する厚岸(あっけし)、霧多布(きりたっぷ)及び樺太の漁場の管理をし、そのかたわら独立して海産商を営んでいた。
初代栄吉が生前厚岸の漁場に行っていた頃、保田家の漁場で働いている鉄蔵をハナの聟にと見込み、保田家の主人にも、その意向を伝えていたが、その希望を果さずに死去したのである。一家の柱を失った池田家の窮状を察した保田家の主人が、鉄蔵を池田家の聟養子に世話し、大正四年(一九一五)七月、池田家の二代目を継いだ。
この時鉄蔵は二十六才であった。二代栄吉は創造と守成の才を兼ね備えた人で、家業に精励すると共に、先代の残した事業を一層拡張したが、相続以来豊漁に恵まれ、その資産を倍増した。
又先代のやり残した植林事業を継続し、大正五年(一九一六)更に熊別川の流域の山地七十町歩を購入し、杉とカラマツを約八万本植林し、次いで六十町歩の山地を購入して、十ヶ年計画を立てて造林につとめた。
栄吉は公共のためには卒先して多額の寄附をし、村会議員、学務委員、宮川神社総代等多くの役職につき、村民の信望が絶大であった。
又読書、書画を好み、その所蔵している書籍、書画の数は莫大なものであった。
二代栄吉も男子に生まれず、昭和二十年(一九四五)十一月二十七日、五十四才で病歿した。
二代栄吉はハナとの間に、二女があり、長女ミドリは堀田久善に嫁して分家し、二女英子(ひでこ)は前川光義を聟養子とし、光義が池田家を継いだが、英子は昭和四十二年(一九六七)病歿した。
〓池田家では、幼なくして両親に死別した初代栄吉を引取って世話してくれた〓金沢家、及び二代栄吉を養子に世話してくれた函館の保田家の恩義を今でも忘れず、親交を続けている。