飯田東一郎
明治十年まで、小安村、戸井村が独立の村であり、それぞれ、会所を置いて名主、年寄、百姓代などという村役人が村行政を司(つかさど)っていたが、明治十一年、小安村と戸井村を統治する戸長役場が置かれるようになり「戸井村外一村戸長役場」という長い名の役場が、戸井町館鼻の旧会所の建物の中に設置された。
この戸長役場の初代戸長に任命されたのが、飯田東一郎である。飯田東一郎は弘化四年八月十五日生れなので、戸長に就任したのは三十才の時である。
戸長役場時代は明治三十五年三月三十一日まで、二十五年間続き、戸長は第十代多田作太郎が最後であった。明治三十五年一月十四日の〓石田家の戸籍謄本に
小安村字瀬田来七八番地
前戸主 亡夫石田 弥兵衛
明治三十五年一月十四日
亀田郡戸井外一村戸籍吏多田作太郎」とある。
明治三十五年三月三十一日までは、戸井村字○○、小安村字○○として、役場は一つであったが、村は二つに分れていたのである。
明治三十五年四月一日に二級町村制が施行されて、戸井村と小安村が合併し、戸井村大字戸井村字○○、戸井村大字小安村字○○と呼ばれるようになった。
飯田東一郎は会所時代から戸長役場時代に切り替った時の初代戸長として、二十五年後に戸井村と小安村の合併の基礎を築いた功労者である。
飯田戸長は明治十一年に初代戸長に就任し、明治十八年戸長を退任するまで満七ヶ年に亘って村治に努力したのである。飯田戸長時代は開拓使時代から明治十五年に三県を置いた三県時代にまたがっている。
初代戸長として七ヶ年の飯田東一郎の功績で特筆すべきことは村内の各部落に公立小学校を設置したということである。
飯田東一郎が戸長に就任してから二年後の明治十三年一月に小学則及び教則が定められ、修業年限六ヶ年とし、別に修業年限四ヶ年の変則小学校を置くことができるという法令が公布された。
飯田戸長はこの法令に基き、村民と協議して
①明治十三年三月九日、公立瀬田来学校を小安村字瀬田来に
②明治十三年十月十八日に公立戸井学校を戸井村字館鼻に
③公立戸井学校と同日に公立白浜学校を小安村字白浜に
④明治十三年十二月二十四日に公立汐首学校を小安村字汐首に
⑤明治十五年二月に公立小安学校を小安村字村中(現小安)に
それぞれ校舎を建てて創立した。
明治十七年七月には、白浜、釜谷、村中を一通学区域とする学校を設置し、白浜学校を併合して公立小安小学校とした。
明治十八年十月七日、公立戸井学校の位置に、公立戸井小学校の校舎を新築して退任した。戸長退任後も学務委員として学校教育の進展に尽粋した。
「町村百年の大計は教育にあり」ということばは為政者のよく口にすることばであるが、飯田東一郎が初代戸長に就任した年から数えると約百年になる。草創期の戸井町の教育の基盤を築いたのは実に飯田東一郎であり、百年後の今日の戸井町の発展は飯田戸長の力に負うことの多いことを想起すべきである。
初代戸長飯田東一郎は「教育戸長」と評すべきである。百年の星霜を閲(けみ)して、中学校、高校が生れたが、何れも飯田戸長の残した基盤から生れたものである。
戸井町郵便事業のパイオニヤは足達惣吉、健次郎父子であるが、飯田東一郎は郵便事業の発展にも戸長として絶大な協力後援をしたのである。