終戦後、大日本青少年団が解散させられ、それに伴って各地域の青年団も解散し、全国民飢餓と混乱の中に、進駐軍司令部の指令指示によって、次々と民主化の施策が強行され、青年たちも「何をなすべきか」という目標を失った月日が長く続いた。然し社会の混乱が治まり、稍々安定を取戻した段階から、郷土の再建のために「何かをしよう」という意識が青年たちの間に盛り上り、地域地域に新しい青年団結成の動きが出て、同志的な青年団が組織されて行った。
結成当時は、部落への奉仕活動、団員相互の親睦、青年としての教養を高める活動を行った。然し集会の場がなくて活動に支障を来していた青年たちは「青年会館を建てよう」という合言葉のもとに、旧戸井要塞の兵舎の資材の払い下げを受け、建築費の一部は部落の援助を受け、工事は団員の労働奉仕をするなどして青年会館を建設することが各地域で行われた。こうして青年たちの手によって建設された青年会館が、青年たちの集会の場、社交の場となり、各部落の祭典行事の練習の場としても役立ったのである。現今、公費によって大きな会館が種々の名称で各地域に設置されているのを見ると、全く隔世(かくせい)の感がある。
昭和二十四年から一月十五日が、成人の日として、新しく国の祝日に指定され、この年から全国の市町村が主催して成人祭を挙行し、これにちなんだ青年の諸行事を実施するようになり、青年の自覚が高まり、青年団活動が活発化するようになった。
戸井町でも弁論大会、芸能大会、野球大会などが青年団体の主催で実施されるようになった。
2 「戸井村青年団体連絡協議会」の結成
昭和二十七年頃には、戸井町内各地域の青年団体の組織が確立し、その活動も軌道に乗ったので、連絡協議会結成が議題になり、町内八青年団体をもって、「戸井村青年団体連絡協議会」が結成され、初代会長に瀬田来青年団長の芋川親一が選ばれた。
歴代連絡協議会長は次の通りである。
[歴代連絡協議会長]
連絡協議会を結成した昭和二十七年と翌二十八年には、宮川神社々務所を会場として、青年団幹部講習会を開催するなど、この数年間は、各種の活動が活発に行われた。この時期には、青年学級や青年陸上競技大会等も盛んに行われ、娯楽を加味しながら学習にも重点をおく活動が行われた。
3 漁協青年部の誕生
昭和二十五年に、各漁業協同組合傘下(さんか)の青年に、漁業協同組合の実践活動を通じて、漁業生産の増強をはかると共に、漁業人としての教養を高め、豊かな漁村社会建設に寄与しようという意欲を与えることを目的として「漁協青年部」が設置され、青年に対して水産技術の改良及び養殖事業の研究、実践を行わせ着実な実績を挙げている。
4 戸井から渡島の会長
昭和三十一年と翌三十二年の二ヶ年、小安青年団長山路栄が「渡島青年団体連絡協議会」の会長に選ばれ、第五回渡島弁論大会を小安小学校で開催し、下海岸青年団体代表者会議を日新中学校で開催した。
昭和四十二年には、戸井西部漁協青年部長石亀喜代治(瀬田来)が「渡島管内漁協青年部連絡協議会」の会長に選ばれ、爾来現在まで五年間に亘って、渡島管内漁協青年部の指導者として活躍している。
戸井町青年団体の沿革及び組織状況は次の通りである。
①昭和二十年から昭和四十二年までの青年団体組織状況
①昭和二十年から昭和四十二年までの青年団体組織状況
②漁協青年部の組織状況
②漁協青年部の組織状況
③昭和四十七年度青年団体組織状況
③昭和四十七年度青年団体組織状況